※本ページ内の情報は2024年4月時点のものです。

国内屈指の大型音楽フェスティバル「SUMMER SONIC」。東京と大阪で同時開催する都市型ロックフェスは圧倒的な集客力を誇り、日本の音楽シーンを盛り上げてきた。

そのSUMMER SONICを運営しているのが、株式会社クリエイティブマンプロダクションだ。同社代表取締役社長の清水氏に、SUMMER SONICの始まりや今後の取り組みについて話をうかがった。

ある一言から始まったコンサートプロモーターへの夢

ーー音楽の世界に引きこまれたきっかけは何ですか?

清水直樹:
小学4年生の頃、家に初めてレコードプレーヤーが届いたことが音楽に触れるきっかけとなりました。高校時代に貸しレコード店が全国でスタートし、毎日レコードを借りて音楽に没頭し始めます。

将来は音楽関係の仕事をしたいと思い、静岡から上京して、とある企業の面接に行きました。そこで出会った音楽事務所の人の「君は音楽業界のことを何も知らないから、コンサート業界から始めてみたらどう?」というアドバイスが、僕のプロモーター人生を歩むターニングポイントとなったのです。

コンサート業界にはアーティストがいて、それを聴くお客さんがいて、照明などの舞台をつくる裏方に加え、レコード会社や雑誌などのメディアまで、音楽業界の全てが詰まっています。コンサートプロモーターという目標を見出した僕は、コンサート業界の企業に就職しました。

ーー最初の会社ではどのような業務をしたのですか?

清水直樹:
入社して間もなく、舞台監督という一番重要な役割を任されました。何も知らない初心者だったのでミスをしては怒られる過酷な日々でしたが、コンサートの裏方を全て経験させていただき、ひと通りの流れを学ぶことができたので、今となってはありがたい環境だったと思います。

初のSUMMER SONICで起こったトラブルを乗り越えて

ーー貴社に入社した経緯を教えてください。

清水直樹:
洋楽やロックが好きだったので、そちらをメインでやっている会社をいくつか転々とし、1990年にクリエイティブマンプロダクションの立ち上げに参加したのです。僕が25歳の頃でした。

1980年代後半、日本でもスタンディングライブの文化が始まったこともあり、国内に海外アーティストを呼び込むことが容易になりました。10年かけて着々と企画、運営などのライブの力をつけ、設立当初からの夢であった音楽フェスティバル「SUMMER SONIC」を2000年にスタートさせました。

ーー第1回目のSUMMER SONICでの印象的なエピソードを教えてください。

清水直樹:
出演いただいたジェームス・ブラウンの演奏が、なんと持ち時間から1時間以上もオーバーしてしまうということがありました。後続のアーティストに謝罪し、どうにか納得してもらいましたが、メインアーティストの出演時間が削られてしまい、まさに波乱の幕開けでした。さらに、真夏にもかかわらず室内ステージの空調が効かず、今やビッグアーティストのコールドプレイなどを汗だくにさせてしまうという失態も。

予想外のアクシデントも多々ありましたが、それでも日本のフェスで初めて2ヶ所同時開催を実現できたことは大きな功績だったと思います。第1回目は山梨と大阪でしたが、成功と失敗を両方体験できた記念すべきスタートとなりました。

ーーコロナ禍ではライブの中止・延期が相次ぎ、大打撃を受けたと思います。どのように立て直しを図ったのでしょうか?

清水直樹:
コロナ禍の影響を受けた際、日本の音楽業界に向けた経済産業省からの支援に、洋楽は含まれていませんでした。そこでコンサートプロモーターズ協会(ACPC)に加盟する招へいプロモーター10社が集まり、インターナショナル・プロモーターズ・アライアンス・ジャパン(I.P.A.J)を設立しました。

公演の延期・中止によるチケット代の逸失売上はこの10社合計で363億円に上っており、「日本を代表するフェスが存続の危機だ」と政府に訴えかけたのです。それによって洋楽も支援を受けることができ、海外アーティスト来日のめどがつけられるまでになりました。

「GMO SONIC」や海外進出で、さらなる拡大を目指す

ーー昨年から、GMOとタッグを組み「GMO SONIC」を開催されていますね。

清水直樹:
東アジア初上陸となるダンスミュージックの祭典「EDC JAPAN」を、GMOと共同で手掛けたことがそもそもの始まりでした。素晴らしいフェスのスタイルを持ち、熱意を注いで資金や労力をかけて挑んでいたGMOの活躍を間近で見ていた僕は、「もしもまた開催するのであれば、自分たちのフェスをつくった方が良い」とGMOの熊谷会長に話をしたのです。

新型コロナウイルスの感染拡大を受けた規制が緩和されることになり、いよいよGMOでフェスを開催するとなったとき、それぞれの名前を表に打ち出した「GMO SONIC」を始動しました。今年で2年目となりますが、運営も非常にうまく進んでおり、今後も続いていく祭典になると思います。

ーー今年の8月には海外初進出として、タイのバンコクでSUMMER SONICが開催されますね。以前から海外進出を目指していたのですか?

清水直樹:
日本から世界へ進出していくべきだと常々感じていたので、ここ数年間、ソウルや上海などでトライアルとしてフェスを開催してきました。僕はアジアを1つのチームだと考えているのですが、アジア全体で広がっているフェスがないことに、プロモーターとして歯がゆさを感じていたのです。

そこで、SUMMER SONICをアジアで進めていこうと決意しました。タイではフェス文化が根付いており、日本との親和性もあるため、最初の開催地としては最適だと思います。今後は1年ごとに違う国で開催するなど、SUMMER SONICをアジアに浸透させて日本のアーティストを世界に連れていくことが現在の僕のビジョンです。

編集後記

20年以上の歴史を積み重ね、日本の夏の風物詩ともいえる存在となったSUMMER SONIC。今後も海外進出や新たな取り組みをしていく中で、人材確保は欠かせないポイントだ。

「固定観念にとらわれず、まだ実現していないものを自ら開拓していこうという熱意を持った人材を求めています」と語り、新たな風に期待を込める清水社長。今後も日本の、さらに世界の音楽シーンを盛り上げてくれるに違いない。

清水直樹/1965年、静岡県生まれ。高校卒業後、専門学校に進学し、上京。1990年、株式会社クリエイティブマンプロダクションの立ち上げに参加。1997年、同社代表取締役に就任。2000年、日本初2大都市同時開催フェス「SUMMER SONIC」をスタート。洋楽を中心としたプロモーターとして海外アーティストの招へいおよび興行、国内外アーティストのコンサートやイベント・フェスの企画・制作・運営など数多くを行っている。また、コンサートプロモーターズ協会常任理事及びインターナショナルプロモーターズアライアンス代表も兼ねる。