【ナレーター】
梅酒市場において国内シェアトップを誇る「チョーヤ梅酒株式会社」。
1914年に、葡萄栽培農家として創業し、1959年に梅酒の製造に着手。「梅酒は家庭でつくるもの」という当時の固定観念を変え、シェアを拡大した。海外でも70以上の国に展開し、社名にもある『CHOYA』(チョーヤ)としてその存在感を際立たせている。
「とどけ、梅のちから。」をスローガンとして掲げ、躍進を続ける同社をけん引する、経営者の想いに迫る。
【ナレーター】
半世紀以上に渡り、数々の商品を世に送り出したチョーヤ梅酒。その中でも確固たるブランドを築きつつあるのが『The CHOYA』だ。
金銅(こんどう)がこのブランドに込めた想いとは。
【金銅】
しっかりした原料、いい梅を使い、ベース(リキュール)もしっかりしたベースのものを使っています。それで糖類も我々は基本的には氷砂糖の類のものを使っているんですけれども、それを蜂蜜やアガベシロップなどに変えていっています。
そのように変えていく努力をしても、梅酒というものに頼ってしまったら、結局は合成したものと同じになってしまう。「それならば、梅酒と呼べるものもチョーヤと呼んでいただくような方法がないものだろうか」と考えました。
海外では梅酒と呼ばずに『CHOYA』と呼んでいただけるようになっているものですから、「海外でできたのだから、日本でその方向に向かうことは、時間さえかければ可能だろう」と。
『The CHOYA』は、当社の先輩がやっていた“きちんとしたものづくりの集大成”なんですよね。「過去、こういうことをしてきました。それを『The CHOYA』と呼ばせていただけませんか」とお願いしているのが、今の当社です。
【ナレーター】
5代目社長である金銅のキャリアスタートは大手電機メーカーだった。家業を継ぐことを期待され、父から説得も受けたが、自身は家業を継がず、他社で勤め上げるつもりだったという。
その考えを変えるきっかけとなった出来事とは。
【金銅】
私の母が電話を掛けてきて、延々と説得をされましてね。その声を聞いているうちに、同族の会社へ行ってもいいのではないかと思いました。
「経営者になって仕事をするのも一つの新しい選択肢としていいんじゃない」というぐらいだったんですけれどね。
偶然、母は私がチョーヤに入社した1年後に亡くなるのですが、おそらく何か、切実さを感じたから説得を受けたのかもしれません。
母は53歳で亡くなりました。当時、私が29歳のときでした。おそらくかなり病気が進行していて、自分の死期が近いことに、もしかしたら感づいていたのかもしれませんね。
【ナレーター】
そして1983年にチョーヤ梅酒に入社。当時、梅酒の売上は全体の半分程度だったと金銅は振り返る。
【金銅】
私が入社した当時の国内営業ではまだワインを売っていました。
梅酒が増えてきたのは、おそらく入社して約4~5年後でしょうか。そこから海外展開へと舵を切ろうと。
その動機をくれたのは、私の先輩である同族の方ですけれども、当時は仕事がなかったので、「それならば」という動機も大きくありましたね。
この梅酒の海外展開が、当社における私の真のスタートだったかもしれません。
【ナレーター】
梅酒を海外の人にも普及させたい。その願いを実現するため1995年に中国、東南アジアへ進出。知られざるその裏側に迫った。
【金銅】
とても買っていただけるような環境ではなかったんですね。
所得の問題がありましたし、中国はまだ国全体が閉鎖的で、受け入れていただけない状況でしたから。
中国の方に本格的にアピールをして反応をいただけるようになったのは、1997年の香港の中国返還からでしょうか。
結構注目してもらって、話も聞いていただけて、「中国人の方からスタートする」と思った方向に進んでいたことは事実です。結果の数字はまだまだ満足できる水準ではありませんでしたが(笑)。
うまくいっているとまでは言えない時期でした。ただし、社員の皆が興味を持って「自分も参画しよう」という方向に向かったので、当社自体が海外の事業に対して積極的に取り組むようになってくれましたね。