ハワイアン店舗『ALOHA TABLE』を筆頭に、カフェやバー、レストランなど、様々な業態の店舗を全国に展開する株式会社ゼットン。2016年9月には、東証一部上場企業である株式会社DDホールディングスのグループ会社として新たな1歩を踏み出した。

代表取締役社長である鈴木伸典氏は、前経営者でカリスマ的存在であった創業者の稲本健一氏から2016年、会社の舵取りを託された。創業間もない頃からゼットンを支え、一時は落ち込んだ業績をV字回復させた鈴木社長。大学卒業後に司法書士を目指すべく勉強を始めたものの、「自分が本当にやりたいこと」が何かわからず、もがく日々を送った。そんなある日、稲本氏に告げられた、思いもかけない言葉とは。人生の岐路となった、鈴木社長の“Turning Day”に迫る。

自分らしく生きるために選んだ高校

父は岐阜県で祖母の代から続く縫製工場を営み、幼い鈴木社長に「商売人とはかくあるべきだ」という哲学を事あるごとに話して聞かせた。

「謙虚であれ」「人に感謝をしろ」
「受けた仕事をどれだけ高い質で返すことができるかが勝負だ」

鈴木社長の日常は、そうした事業主としての心得に囲まれていた。


鈴木社長にはどうしても進学したい高校があった。非常にレベルが高く、自由闊達な校風が特徴の高校だ。中学生になった鈴木社長は、その高校に入学すべく、学業と部活、双方に専念した。その結果、“優等生”の鈴木社長が形成されていった。だが、その高校に入りたいと思った本来の目的は「自分のやりたいことを思う存分やり遂げるため」だった。

念願の第一志望校に入学した後は、それまでの“バランス型”の優等生タイプだった自分から脱皮し、学業以外で自分が興味を抱くことに徹底して時間を費やした。

「周囲の友人も同じような考えが多かったと思います。まずはこの高校に来ることがスタートで、そこで自分が何を選択するのかということを模索していた。」

自分たちが行おうとしていることに自信を持ち、世間の“常識”に縛られない生き方を実践する。15歳という青春の真っただ中で、自分の生き方を貫かなければ、自我を定義することができなくなるのではないかという、若いからこその“焦り”。それは鈴木社長に「自分というものを誤解されたまま、世に出なければならないことへの恐怖心」さえ抱かせたという。

特に音楽活動にはどっぷり浸かり、学校が終われば楽器屋に入り浸る完全なギター小僧。世の中がバンドブームで涌く中、各楽器メーカーが主催するコンテストも数多く繰り広げられた時代。鈴木はヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)を引き継ぐ形で始められた『TEENS’MUSIC FESTIVAL』で中部大会まで勝ち上がり、全国大会まであと1歩のところまでいった実績を持つ。2000人の観客の中プレーできた高揚感は今でも大切な思い出だという。

ゼットン創業者、稲本氏との運命的な出会い

大学に入学し、アルバイトしようと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのはアパレル関係の仕事だった。そこで、アパレルショップのアルバイト店員として働き始めたが、配属されたのはレディースブランドだった。そのため、年上の女性社員たちの派閥争いに巻き込まれ、心身ともに疲弊してしまう。1年ほど経ち、「もう辞めよう」と考え始めた頃、たまたま入ったカフェに魅力を感じ、アルバイト募集の貼り紙を見てすぐさま応募した。

出勤時間が早かったアパレルショップとは異なり、カフェのアルバイトは昼頃からスタートすることが多く、夜が遅くなっても翌日に響かなくなった。当時、名古屋はまだディスコが全盛の時代だったが、徐々にクラブが出始めており、鈴木社長は、名古屋一の繁華街、栄から少し離れた場所にあるクラブに通うようになった。その店の一風変わった内装や、独特な照明の雰囲気がかえって居心地良く感じた。そして何より、そのクラブの2人のバーテンダーと話をするのが楽しみだったのだ。そのバーテンダーこそが、後のゼットン創業者である稲本氏と、現在の執行役員である梶田氏だった。


長身ですらっとした稲本氏は、パーカーにジーンズというラフな格好が印象的だったという。あまり酒が得意ではない鈴木社長のために、飲みやすいカクテルをつくり、鈴木社長が別の店でも注文できるよう、カクテルの内容を詳しく教えてくれた。そんなさりげない心遣いに惹かれ、常連となった鈴木社長は、いつしか2人に自分の将来の夢を語るようになった。そんなあるとき、稲本氏が「それなら、1度バーテンダーをやってみるといい。きっとお前の世界がもっと広がるよ。」と、同じビルのオーナーに掛け合い、階下のバーを紹介してくれた。

カフェで働いていたときには、アパレルショップでは出会えなかったような年齢層のお客様や、様々なバックグラウンドを持つスタッフたちと知り合い、コミュニケーションを取れたことに喜びを感じていたが、バーテンダーとなってからは、稲本氏の言った通り、更に新しい世界を知ることとなった。名古屋でもハイクラスなバーだったということもあり、年齢が二回りも離れたお客様の話題についていくため、必死に勉強をしたという。そうして、名前を覚えていただく機会が増えたり、自分のつくったカクテルが好評だったりする中で、飲食店で働く喜びをかみしめていった。

回り出した運命の歯車~President’s Turning Day~

しかし、当時はまだ飲食業を生業にしようとは微塵も考えていなかった。仕事は楽しかったが、技術的にも精神的にも自分がこの業界で通用するとは思えなかったからだ。大学4年生になり、周囲が就職や進路を考え始めたころ、鈴木社長も将来について具体的に考えるようになる。法律関係の仕事に進む友人が多い中、鈴木社長は幼い頃から父に教えられてきた商売の楽しさが忘れられずにいた。そこで、いずれ自分で事務所を構えることを想定し、ひとまず司法書士になることを選択。大学を卒業し、試験勉強に専念することを決意した。

ところが、就職浪人1年目を終え、2年目の春に入ったころ、「このままで良いのだろうか」という疑問が胸をよぎった。

「自分を納得させるために司法書士になると選択したけれども、これが本当にやりたいことだったのかというと、そうでもなかった。そこに、とてつもない不安を感じ始めていましたね。」

そうはいっても、何をやったら良いのかわからなかった。

鈴木社長が就職浪人となった1年目の秋、1995年11月に稲本氏は『zetton』1号店を名古屋市中区にオープンさせた。翌年の春には大繁盛店として、様々なメディアに取り上げられ、名古屋の飲食業界に彗星のごとく現れた稲本氏は、瞬く間に有名になっていった。鈴木社長と稲本氏は、変わらず連絡を取り合う仲だった。だが、他愛ない話をカウンター越しにしていた時とは、少し異なる感情がそこにはあった。鈴木社長は、稲本氏の活躍が聞こえるたびに嬉しい気持ちになり、事業家として目指すべき人となった稲本氏に対して、尊敬の念を抱いていた。その一方で、「住む世界が違う人なんだ」という思いを持っており、2人の運命が交錯することはないだろうとも考えていた。

だが、その予想は大きく外れることとなる。


就職浪人2年目の夏、稲本氏から1本の電話が入った。

「伸典、ちょっと膝を突き合わせて話をしないか?」

そうして、待ち合わせの店に着くと、稲本氏はおもむろにこう切り出した。

「ところでお前、司法書士になるって言っていたけど、今、どうなんだ?」

おそらく、稲本氏は鈴木社長の迷いを知っていたのだろう。

「いやー、上手くいかないですね。先が全く見えません。」

「わかった。実は今日、『zetton』2号店をつくるために、ビルを借りてきた。お前、うちに入れ。」

「ええ!?」

鈴木社長にとっては青天の霹靂だった。


店を出たあと、稲本氏は鈴木社長を車に乗せ、その日契約してきたばかりの自社ビルの前まで連れていった。当時は街灯も少なく、真っ暗な路地にぽつんと建つ6階建てのビル。

「ここを借りたんだ。」

そのビルを見ても、まだ実感が湧かなかった。



「少し時間をもらえませんか?」

鈴木社長は、ひとまず考える時間をもらった。


カフェやバーテンダーの仕事を通して、飲食業の面白さを知っていた鈴木社長は、司法書士になるという“夢”への懐疑心も相まって、「とりあえず、アルバイトから始めてみよう」と1996年11月1日にゼットンに入社すると決意した。

「本当にやりたいこと」を探す旅の中で、急に目の前に現れた扉に飛び込むこととなった鈴木社長。しかし「その選択は間違っていなかった」と、今では確信している。

ゼットンを更に成長させる条件とは

ゼットンはその後、数々の人気店をつくり上げ、世間にその名をとどろかせた。2006年には名証セントレックスに上場。一時業績が下降したものの、現在では見事なV字回復を遂げている。

その間、鈴木社長は大きな病を患ったが、リハビリの一環で始めた水泳からトライアスロンにのめりこむようになった。それはバーテンダーとして働き始めたときと同じように、新境地への第1歩ともなったのだ。

「この病があったからこそ出会えた人がいて、アスリート系経営者としてのライフスタイルを確立している今の自分がいる。マネージメントやゴールに向けてのロジックの組み立て方、そうしたことは病気が教えてくれたとさえ思っています。トライアスロンにチャレンジしたおかげで、地道にトレーニングを重ねて新しい自分と出会うことができ、目標に向かってコツコツと積み上げることが結果を残せるという成功体験ができた。」

そして2016年、カリスマ的な存在だった稲本氏によって社長に任命された。


「稲本のような強烈な経営者がつくりあげたゼットンを、鈴木をトップとした“チームゼットン”にしていくためにはやらなければならないことが、たくさんある。」

新たな体制となり、ゼットンをより強固な企業としていくためには譲れない信念があるという。

「僕が今もっとも大切にしていることは、理念をいかに浸透させるかということです。事業運営の方法や組織も柔軟に変えるけれども、理念だけは変えてはいけない。理念がなくなれば、ゼットンではなくなってしまう。」

ゼットンの経営理念は「店づくりは人づくり 店づくりは街づくり」。仮に3代目の経営者が、この理念をスタッフに刷り込もうとしても、「それでは遅い」と鈴木社長は語る。

「今、最も影響力のあった稲本という人間がいなくなり、その温度が残っているこのタイミングだからこそ浸透するのです。」

この2年間、ハイパフォーマンスなゼットン創り上げるために、鈴木社長はゼットンの運営方法を「徹底的に変えてきた」という。そして同時に、理念の浸透に力を注ぎ続けた。

「ゼットンの理念を伝えるためにはどうしたら良いか ということにフォーカスし、とにかく諦めず、何度も何度も様々なアプローチで伝え続けてきました。だからこそ、V字回復できたのだと思います。」

稲本氏によって生み出されたゼットンは、創業者の手を離れた今、鈴木社長によって新たな大木へと姿を変えつつある。

「己が何者か」を問い続けてきた鈴木社長の歩んだ道は、新生ゼットンの経営者としての未来に向けて、長く続いていく。

鈴木 伸典(すずき・しんすけ)/1971年、岐阜県生まれ。愛知大学卒。大学卒業後、司法書士試験の勉強をしていたが、1996年に株式会社ゼットンの創業者である稲本健一氏に声をかけられ、同社に入社。2004年に副社長に就任し、『ガーデンレストラン徳川園』をはじめ、数多くの店舗の出店を手掛ける。その後、大病を乗り越え、2016年、同社代表取締役社長に就任。

※本ページ内の情報は2018年4月時点のものです。

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