山喜株式会社
代表取締役社長 宮本 惠史

宮本 惠史(みやもと けいじ)/1947年9月生まれ。東京大学経済学部を卒業後、通産省へ入省。1988年6月に通産省を退官し山喜へ入社、11月に取締役に就任。取締役副社長、代表取締役副社長を経て、1993年に現職。

本ページ内の情報は2016年11月時点のものです

ワイシャツを筆頭に、レディースシャツやカジュアルシャツの卸売製造を手がける山喜株式会社。日本全国のワイシャツ総枚数が約5000万枚のところ、山喜はうち1000万枚強にのぼる製造販売を手掛け業界シェアトップを誇る。デフレにおいても、高品質を保ちながら販路を広げ続けてきた秘訣について、代表取締役宮本惠史社長に伺った。

海外進出とM&Aにより、あらゆる価格帯の生産体制を実現

1000万枚以上というと、業界内で2割を超えるシェアですね。

宮本 惠史:
山喜は卸売ですので、日本全国のあらゆる小売店、量販店、百貨店向けに相手先のブランドも含めシャツを製造・販売しています。日本中の男性の大体4人もしくは5人に1人は我が社が生産したシャツをお召しになっていることになりますね。シェアの割に一般に知名度が高くないのは、相手先のプライベートブランドを製造している場合が多いからです。しかし、たとえば日本の百貨店の既製のワイシャツでは半分、オーダーシャツでは7割ほどを手掛けています。

ここ数十年、専業メーカーは厳しい状況にある中、シェアを伸ばして来られました。その強さの要因は?

宮本 惠史:
シャツ製造業界も競争が進み、寡占化されてきています。山喜にも明治以来の老舗であるシャツメーカー、CHOYA株式会社が2015年にM&Aで加入しました。山喜の売上全体189億のうち8割強がワイシャツですので、シャツ専業メーカーのなかでは非常に大きなシェアを持つ立場になっています。

競争に打ち勝ち、残ってきた非常に大きな背景として、価格競争力のある生産基地を早くから海外に展開してきたことがあります。山喜は昭和44年に台湾に海外進出しました。それからタイ、上海、ラオス、インドネシアと進出し、現在バングラデシュで多くのシャツを生産しています。また、山喜には品質を第一にするという体質があります。ローコストを実現すると同時に、質の高いシャツを作るということを一貫して行ってきました。

20年続く日本のデフレの中で、価格競争力のある商品を提供できる企業が現在まで残っています。山喜がバングラデシュに生産展開したのは20年近く前です。そのバングラデシュでのローコストオペレーションが確立できていることは、山喜がデフレの中で勝ち残ってきた大きな要因です。

他社に先駆けて海外で生産を始められたのには、どのような背景があったのでしょうか。

宮本 惠史:
アパレル製品の中でもシャツは、ファッション性と同時に実用性も大きい商品です。婦人アパレルに比べて、ワイシャツはもともと価格競争力を持たないと残っていけません。

創業者である父が始めたころは国内で製造販売していました。しかし経済成長とともに日本の人件費が上がり、国内の生産では採算が合わなくなりました。日本の産業の発展形態として、シャツメーカー山喜の海外進出は最先端を行っていましたが、それは別の言い方をすればいちばん最初に追い込まれたということです。

もっとも早く危機感を感じられた。

宮本 惠史:
余裕のある会社は国内でやり繰りが何とかできていたので、海外展開が遅かった。たとえばアパレルではスーツメーカーは割と海外進出が遅かったと思います。山喜はシャツメーカーの中でも特別早くに台湾に進出し、その後も生産の海外展開を広げ価格競争力を常に持つという生産体制を作ってきました。

進出前でも、地方の問屋や量販店向けが大半を占め、常に良いものをより安く大量に提供しなければなりませんでした。価格競争が厳しかったからこそ海外展開していこうという流れになったのです。亡くなった先代の先見性もあったと思います。並行して国内工場を閉鎖していく過程も簡単ではありませんでしたが、そのプロセスを社員全員の協力でやってこられたことがとても大きかった。

現在ではCHOYAの加入により国内工場が増えました。現在、国内に4工場あるのですが、これらの工場は百貨店向けの高級シャツを作る高い技術を持っています。同時に、ローコストで生産できる海外の工場を各地に持ち、国内外で高級品から低価格品まで生産体制が整っていることが山喜の強みです。

フロンティアをいち早く開発し、資本においても独自の海外展開を図る

宮本 惠史:
山喜は基本的に独自資本で海外展開をします。商社と組まず、工業団地にも入らずに単独立地で行きます。技術移転を徹底的にやりたいからです。我々独自のオペレーションが可能な海外展開をしていきたい。他社と組むと考え方の違いなどが現れます。品質を最優先するメーカーとしての企業体質を守りたいのです。

独自に海外展開をするので非常に手間とコストはかかります。工業団地のようなインフラの整備や税の優遇はありません。立ち上げるだけで大変でしたが、結果的に正解でした。その地域の方々と親しくなり、働いてもらい、その方たちに技術を移転する。進出した各国とも同じ考えで行ってきました。

他社の追随は可能でしょうか?

宮本 惠史:
他社も非常に努力していらっしゃいます。しかし、ローコストでかつ高品質は、簡単に聞こえますが非常に難しい。人件費の安い国は貧しい国でもあります。非常に危険な地域もある。日本とはまったく違う環境の中で工場を運営して物を作る。かつ現地で採用した方に日本に研修に来ていただいて送りかえすことを繰り返す。これを続けて初めて低コストで高い品質の商品が作れるのです。山喜は50年近く取り組んできました。それがメーカーとして生き残っている理由でもあります。

低コスト生産にプラスする企画力と開発力、そして今後の展開

宮本 惠史:
シャツはファッション性もあるので、素材メーカーとの連係プレーを大切にして、商品企画力の強化も長年行っています。生産枚数が多く、マーケットシェアの高い山喜は、素材メーカーからみても共同開発のしやすい相手です。いろいろな新しい素材を提案してもらったり、私たちからも希望を出したりしやすい関係が生まれ、新たな素材開発に結びついています。またCHOYAの加入により、百貨店向けの付加価値が高い商品についても企画段階から参加する力がつきました。

今後の展開についてはいかがですか?

宮本 惠史:
ローコストでかつ高品質に磨きをかけて、国内のシェアをもっとあげていきたい。もう一つは海外販売です。国内だけでなく海外の優秀な素材メーカーとの連携も出来ているので、日本の小売業の海外展開への対応だけでなく、もっと広く世界に販売したい。今現在も東南アジアやタイの日系百貨店やオーストラリア、スペインなどで山喜の生産するシャツを買っていただいています。日本の工業品に対する世界の消費者の支持は高いのです。

アジアの発展にも非常に期待しています。特に東南アジアでは、経済成長によりシャツに対する要求水準も上がってくるでしょう。また中国ではパターンオーダーの需要が増えてきました。95年からある上海工場を強化し、日本向けだけでなく現地の変化に合わせたシャツを提供する仕組みに切り替えつつあります。

経済成長し人件費が上がるなか、日本で売るだけでは競争力が落ちてきます。変化に対応しないと工場は立ち行かなくなる。具体的には、人件費が上がったら付加価値が高いものを作っていく。そして人件費が上がるにつれて出来上がる現地のマーケットで販売する。変化に合わせて手を打つことで、事業展開が続けられます。

今後はヨーロッパへのアピールも強化していくつもりです。ヨーロッパは伝統的にアパレルが強いですが、実はモノづくりにおいては中国の優秀なメーカーが担っている部分が多い。日本も担える可能性は十分にあると思います。

2通りの技術者がローコスト高品質を支える

ローコスト高品質の中での人の役割についてはどうお感じですか?

宮本 惠史:
とても重要です。技術者はメーカーの命。品質の高いものを作るには2通りの技術者が必要です。ひとつは具体的な縫製技術を指導して教える技術者。もうひとつは、工場の工程や生産性までも運営管理できる技術者です。山喜には双方の技術者がいます。

50年の経験上、海外への工場展開には日本人の工程管理が不可欠です。我々は自社の工場で人材を育てることができます。育てるのは大変ですが、技術者層がいないとローコストでは作れても、品質の高い製品を作ることはできません。

日本人は自分の担当部分だけでなく工場の生産ライン全体を見ることができます。パーツごとの生産管理ではなく、ライン全体を考える。日本のモノづくりは曖昧と言われるかもしれませんが、相互にかかわりあうことでライン全体の品質や生産性を維持できます。経験から言うと、日本には細部にこだわるというよりお互いに助け合い配慮しあうという文化があるのではないでしょうか。きめ細かくかつ全体で折り合いながらやっていく日本人の特性や良さがある限り、日本の製造業は世界に展開して行けると思います。

また、海外に販路を広げるにあたっての課題は人材です。海外販売には日本人の前述したような特性の良さがマイナスになる場合もあるので、マーケティングに長けたグローバルなセンスを持つ人材が必要です。やはり人材開発が大切ですね。ローコストで高品質な商品を生み出すのは大変ですが、立ち止まっていては追いつかれてしまう。さらに半歩先、半歩先へと進み続けます。

編集後記

「メーカーというのは面白い。モノを作ることによって付加価値を生み出しているという実感がある。」と語る宮本社長。今後はIoTやEコマースなどへの対応もさらに重要になると認識している。しかしどのように形を変えようと、衣服の必要性はきっと変わらない。「我々は変化に合わせて商品を提供していきたい。」と意欲を示した。