※本ページ内の情報は2024年3月時点のものです。

昨今、家庭ゲーム機から携帯アプリなど、数多くのゲームが開発され、競争から脱落していく会社も多くある中で大きく成長し続けている株式会社ハイド。

同社を率いる代表取締役・柳原健一氏は途中入社から代表取締役に就任し、直近ではロゴの刷新、本社移転と会社の成長が客観的にも見て取れる。

その柳原社長に、自身や自社の強み、さらなる成長に向けた今後の展望についてうかがった。

前職での経験を活かした手腕で社長就任へ

ーー柳原社長は途中入社と聞いています。代表取締役となった経緯を教えてください。

柳原健一:
普通、ゲーム開発のいわゆるデベロッパーは創業社長がほとんどですが、僕は創業社長ではありません。

僕自身はもともとパブリッシャー、主に企画・販売を担う側の小さなメーカーで10人ぐらいの会社にいました。

弊社は当時メーカーでもあり、僕はもともとメーカーにいましたから、メーカーの決裁権を持つ方をつないだり、パブリッシャー業務を行うために必要なことを伝えるなど、何かと関わりがあったのです。

「ハイドに来てくれ」と何度か誘われてはいたのですが、仕事の区切りがつかず、ようやく移籍した時には誘われてから既に数年が経過していました。

入社したときには経営者になるつもりはありませんでした。
ただ、前の会社でも半分経営のようなこともしていたため、入社後すぐに開発全体を統括する役割を期待され、この時点で社長のような仕事を担うようになりました。

さらに入社してからしばらくすると、2代目の社長があることがキッカケで退任したのですが、その時点で主な会社の舵取りは私ともう一人の取締役の二人で担うようになっていました。

従って、運用上の問題はなかったのですが、当時、外部交渉を担当していた私が取引先より『代表がいない事についての説明』を求められる姿を見兼ねて、当時取締役だった井芹が私を社長にと親会社に働きかけてくれたのです。その結果、親会社の承諾が得られ私が社長になることになりました。

創業時のボードメンバーである井芹は序列でいうと僕より上でしたが、私が社長をやった方が会社が発展すると考えて動いてくれました。
その彼の思いに報いるためにも、少しでも良い会社にしなければという思いが強くなりました。

ーー前職の経験が活きたということでしょうか。

柳原健一:
前の会社ではゲーム事業で大きな赤字を作ってしまったので、そういう失敗を経験させていただいたことは大きかったと思います。

デザイン担当として入社し、いつの間にか1つの事業部を見ていくようになりました。次第に誰かに仕事を渡すと自分の力がとられてしまうような感覚に陥り、特に当時は「自分は他の人よりプライドも高くて優秀だ」と思っていたので、自分でやった方が早いと考えて、人に任せることができませんでした。しかし、誰かに仕事を渡さないと私は新しいことができません。そのような経験から、早いうちに自分のキャパシティーの限界を知ることができました。このあたりの経験が活きていると思います。

社長就任後も、利益を出せないなど様々な失敗はありますが、常に日頃自分にプレッシャーをかける意味でも失敗を失敗と思わないようにしています。

1つの事業で利益が出なかったとしても、ほかに動いていることで何か会社のプラスにしようと前向きに考えています。

会社成長の一端を担う本社移転とロゴの刷新

ーー直近では本社移転とロゴの刷新をされましたが、理由を教えてください。

柳原健一:
日本のゲーム業界のデベロッパーは、職人気質で外部の目が入りにくい町工場のような印象が否めないため、「その中から抜け出さないといけない」とずっと思っていました。だからこそ、会社を大きくし、大きくなったからには「僕らが目立たなきゃいけない」と思い、2、3年前から移転するつもりで場所を探していました。

ただ、移転しても前の事務所と同じような雰囲気では投資が無駄になると思っていたので、見る物件どれも次のステップに行くための可能性があるようには見えず、決まるまで時間がかかりました。

今のオフィスに決定した理由は、立地が高田馬場から新宿に変わるという点と、それなりの規模で、屋上に庭があって新築で「映える建物」だったからです。僕の中では「映える」は結構重要でした。

今後の僕らのステージでは様々な会社と提携することも必要であり、多くの会社にとって重要な「基幹」にならなければいけないという思いがあったので、最終的に予定していた倍くらいの費用がかかりましたが、インパクトが強い方がスタッフのモチベーションが上がり、費用対効果が大きいと思っています。

会社のロゴも、弊社はもともと親会社に紐づく休眠会社を復活させたものなので、ハイドという名前にした経緯は誰も知らなかったんです。ですから社員一丸となって会社への誇りを持ってもらうために、会社の名前である“ハイド”の各文字 H, Y, D, E にはあらためて特別な意味を持たせました。

事務所を移転し、ロゴを刷新した今、いろんな雑誌やメディアに載せてもらい、露出させるフェーズだと思っています。

成長とチャレンジ精神で目指す先とは

ーー今後の方針を教えてください。

柳原健一:
地方に事業所を持っているので、地方の産業をしっかりと育成したいと思っています。

地方だからこそ出るアイディアもそうですし、プライドを持ってほしいと思っているので、そういう意味だと、もっと学校に関わりたいというところもあります。

会社の目標としては、生き残ることだと思っています。僕の最大の仕事でもありますね。

当たり前のことではありますが、生き残っていればいくらでもチャレンジが可能です。

たとえばマングローブは海水で生きられるようになった、あの適応力がすごいと思っています。化学反応や特異変化というのは、僕らの会社の中で潰れない範囲で新しいチャレンジをしていくことに相当し、進化によって本体の幹も死なないというのが僕の経営方針です。

弊社の弱いところでいうと、ビジネスが作れないことです。僕らのIT技術は日常生活に近いところで皆さんのお役に立つと思いますし、生活を変えられるとも思っています。すごいものを作ることは結構得意ですが、システムやサービスを作ることはおそらく下手です。

ただ、そういうところにもチャレンジしていかないと、新しい道を切り開けないですよね。

ですので、チャレンジしたいという思いはあります。

ーー今後チャレンジしていきたい展望はありますか。

柳原健一:
僕らのゲームのノウハウは、とてもニッチな技術です。わかりやすい例でいうと、スマートフォンで遊べる 「遠隔UFOキャッチャー」の制作に関わりましたので、「遠隔で操作する」ということから「遠隔の物産展のシステ ムを作って欲しい」というオーダーが決まりました!

ゲーム技術をベースとした「ゲームじゃないもの」を作る引き合いが高いことと、他社のシステム会社と比べると圧倒的にクライアントに対する提案力、ホスピタリティが高いということが僕らの強みです。

実際に評価もいただいているので、ゲーム業界の人たちよりもゲーム業界以外の人たちから見た方が僕らのレベル、価値が高く見えると思います。

世界に出ればよりその価値が高まると思うので、進出したいという思いはあります。

最終的には自分たちのやりたいものを納得させるのは、自分たちの能力次第ですし、交渉力も大事なので、その力をつけたいからこそ、弊社のグループを200人規模まで拡大させました。

子会社や提携先を入れるともっと増えますが、今後も提携先が増えて、子会社やグループ会社として一緒に仕事をしてくださる人が300人、500人規模になれば、海外の会社と対等に交渉できると思います。

一緒に組める会社の従業員が20人くらいのところであればタッグを組めば一気に20人増えますし、その会社が受けていた実績も僕らの力になります。チームで一緒に仕事ができた方が幸せですし、クライアントも安心できるので、業務提携を重視しています。「いろんな会社と組めたらいいな」と思っています。

何より、いろんな会社と組んでそれなりのスピードで大きくなって、早く海外の会社と戦い対等なビジネスができる状態を目指します。

編集後記

失敗を失敗と思わず果敢に成功する方向へと導く柳原社長。

新たなチャレンジ先として見据える地方の育成と海外進出は日本の大きな力となるだろう。

成長の先にある柳原社長のチャレンジによる化学反応に今後も注目していきたい。

柳原健一(やなぎはら・けんいち)/株式会社アストロールを経て、2007年に株式会社ハイドに入社。2014年より代表取締役社長に就任し現在に至る。