【ナレーター】
半導体検査装置向けの光学単結晶の世界シェアトップを誇る株式会社オキサイド。
2000年に大学発ベンチャーのパイオニアとして産声を上げた同社は単結晶・レーザ光源・光計測装置などの光学関連製品を製造・販売。
海外売上高比率は66%以上を誇り、国内外の先端企業や大手企業のオープンイノベーションパートナーとして、その存在感を際立たせている。
2021年4月には東証マザーズへ上場を果たし、成長を加速させるオキサイド。創業者の軌跡と見据えている未来像とは。
【ナレーター】
オキサイドの快進撃を支える3つの企業文化と、それらに込めた想いについて古川は次のように語る。
【古川】
研究成果を社会に還元する・新しいマーケットをつくっていく・顧客に課題ソリューションを提供する。創業以来ずっと変わらず、この社風が今の私たちを導いてくれたと思います。
世の中の“困りごと”を解決することで、ビジネスチャンスが生まれる。私たちは、世の中の困りごとをいかに解決するかに集中しています。
マーケットが大きかったり、他の会社でも儲けているところがたくさんあったりしても、困っていないような領域はやりません。本当に困っている領域だけやる。ビジネスの大小を問わず、顧客に何かソリューションを提供できるのであれば、それをやり続けています。
【ナレーター】
オキサイドの原点は古川の大学時代にまで遡る。当時熱中して取り組んでいたあることと、それがもたらした転機とは。
【古川】
大学時代は社交ダンスをやっていて、ダンスのプロになろうと思っていました。ところがパートナーの女性から「私はプロになるつもりはない」と告げられてしまったのです。
通常、大学のスポーツは4年生の夏ぐらいまでだと思いますが、ダンスの全日本選手権は冬に開催されます。
ですので、周りの友人はほとんど就職が決まっていましたが、私だけ、全日本選手権に向けて練習していたため、就職活動をしていなかったんですね。
そこで先生に相談したところ、大学院進学を提案され、ここから人生が大きく変わったと思います。
【ナレーター】
意に反した形で研究者の道を歩み始めた古川だったが、研究の面白さに徐々にのめり込む。卒業後は大手メーカーへと入社。早々に反骨精神が芽生えたと語るエピソードに迫った。
【古川】
当時所属していたグループは地味であり、成果も出ておらず、会社としても解散を検討していたグループでした。でも、数年経つとリーダーになるのは自分です。「いつまでこんなことをやっているんだ」とリーダーになってからも言われ続けていました。
でそういうこと言われると、負けたくないじゃないですか。だから、何とかしたいという気持ちはずっとありました。逆にそれが良かったのかもしれません。
言われたことよりも、現状を踏まえて何か新しいことを自ら切り拓いてやらなければいけない。入社間もない頃にそういう機会をいただき、結果的に今に活きているため、良かったと思います。
【ナレーター】
一念発起した古川は研究に没頭する日々を過ごす。成果は出たが、あることが障害となっていた。これに対し、古川が起こした行動とは。
【古川】
どうしても、アメリカの国立研究所の特許が障害になっていました。それを回避しないと製品にすることができないため、何とか回避しようとしましたが結局ダメだったんです。
でも、私たちは諦めきれず「これを使わせてほしい」とアメリカのその国立研究所に赴き、直訴しました。
断られるかと思っていましたが「日本からよく来てくれた、うれしい。是非使ってほしい」という反応で意外でした。
ただ、アメリカの税金を用いて研究しているため、アメリカの企業とジョイントベンチャーをつくってもらえるのであれば是非使ってほしいとのことだったので、それなら、とアメリカの企業とジョイントベンチャーをつくりました。
【ナレーター】
つくば市の国立研究所へと移った古川は基礎研究に没頭。その研究成果に興味を持った複数の企業がライセンスしたものの、難易度の高さから次々と撤退。
この光景を目の当たりにした古川は「自分がやるしかない」と起業を決意する。
【古川】
さまざまな技術を使って競争しているため、早く世の中に出していかなければ、せっかくの研究成果を使えなくなってしまいます。これはとてももったいないと思いました。
やはり「国立研究所の成果は実用化しなければいけない」というアメリカの研究者からの言葉が印象に残っていました。しかし日本の研究者や国立研究所は、実用化よりも、自分の好きな研究をすることがメインなのでそこまで実用化について考えていませんよね。
私には、やはり国の税金を用いて研究をしているため、実用化しなければいけないという強い思いがありました。だから、当時勤めていた会社がやらないのであれば、自分でやるしかないということで起業を決意したのです。