【ナレーター】
デリバリーやテイクアウトに特化した飲食事業を展開する「株式会社TGAL」。
「新しい食文化の創造」を企業理念に掲げ、2022年5月時点で「TGALデリバリー」を103店舗、106にも及ぶブランドを展開。
これまでの経験値を凝縮して産み出したバーチャルレストランシステム『AETA WORLD』は、低コストでのフードデリバリーの開業支援を可能にし、その出店数を着実に伸ばしている。
近年では海外展開にも注力しており、世界の食文化を変えるべく、挑戦を続けている。
どん底から這い上がり、飲食業界の課題解決に挑む創業者の軌跡と、事業を通じて実現したい未来とは。
【ナレーター】
河野が語る、自社の強みである3つの軸とは。
【河野】
ひとつが『TGALデリバリー』という事業領域で、ひとつの拠点で複数のブランドを取り扱い、その半径3km圏内に配達に行くという事業モデルです。
このブランドに関しては実際の有名店さんのブランドをお借りしています。ですので、まずそこに関しては商品力という強みが1点あります。
もうひとつが『AETA WORLD』という新しい事業。コロナ禍になり、飲食店オーナーさんがすごく苦しんでいる状態があります。
私もハンバーガー屋の店長兼オーナーだった経験がありますが、オーナーがデリバリーを1から始めようとすると、例えば商品を包む包材を探す、商品の写真を撮る、出店申請をするにも、商品画像をリサイズする必要があるなど、やはりオープンするまでの敷居がとても高い。
加えて、仮にデリバリーを始められたとしても、売り上げが上がるかどうかも分からない。
一方、当社はデリバリーで培ったノウハウがあるため、それを元に、飲食店向けデリバリーコンサル支援業務サービスの『AETA WORLD』を開始しました。
2022年4月時点で約520の契約をいただいており、現在も伸びています。
【ナレーター】
創業者である河野の原点は学生時代にまで遡る。広島県で生まれ育ち、上京を考えていた河野は、東京の大学へ進学。
そこで出会った1冊の本が、自身を経営者の道へ導いたと振り返る。
【河野】
『青年社長』という、ワタミ創業者の渡邉美樹氏に関する書籍に大変感銘を受けました。
私の両親も飲食業をしていた経緯もあるので、「飲食で、いずれは多店舗展開ができるような会社をつくりたい」という思いが漠然とありました。
そこから、さまざまな経営者の本を読んだり、当時のベンチャー企業の本を読んだりしていました。若い時期にそれらの本を読めたことは、今でも自分の財産になっていると思います。
【ナレーター】
大学卒業後は大手通信会社へ入社。携帯電話の販売代理店を5社任されるものの、当時はノウハウや経験が乏しかったことから結果が出ず、苦悩の日々を過ごす。
その中で起こった想定外の出来事とは。
【河野】
入社して半年後に「九州に出張に行ってこい」と言われて。その支店の住所に着いたら、赴任先の支店の店舗が閉まっていました。
電話で上司に確認すると、その支店の店長を務めるように命じられたのです。「どういうことでしょうか。新店舗を見てこいと言われたのですが…」と言うと、「だから、その新店舗の店長をやるんだよ」と。
こうなってしまった以上「やるしかない」ということで、約1年間、店長業務を経験させてもらいました。
現場でのマネジメントや採用の方法、店舗のディスプレイの仕方といった細かい部分に至るまでどうするかを考え、実行していきました。
目標を達成するためには、店舗前の通行人数だけですとやはり買ってもらえないので、例えば駅前でビラを配ったり、ビラを配るだけでは弱いのであればクーポン券をつけて配ったりしていました。
自ら現場に入り、目標を達成するための手段をいろいろと考えて実行しPDCAを回すことができたのは、今振り返るととても良い経験でしたね。
【ナレーター】
その後、河野は事業部の責任者として200人以上の従業員のマネージメントを任されるなど、順風満帆な日々を過ごす。
しかし一方で同期社員が次々独立していく姿を見て、今の仕事を続けていくことに疑問を持つようになり、5年の勤務を経て、IT事業を行なうベンチャー企業へと転職した。
この選択が、後の河野の運命を大きく変えることとなる。
【河野】
自分が選んだ道なのに規模感も違うし、当然給料も半分ぐらい下がってしまいました。こうなると、未来のことしか考えられなくなってしまうんですね。
「俺はこんなことをしている人間じゃない」、「もっと大きなことをしていたはずなのに、俺は何をしているのかな」という。周りに流されて転職した結果、業務に集中できず、心の病気になってしまいました。
引きこもりではないですが、家にずっといるようになってしまったんです。
【ナレーター】
どん底とも言える状況下で、ある人物の言葉が河野を窮地から救った。
【河野】
当時の従業員が「河野さん、もう一回、一緒にやろうよ」と言ってくれて。これが一番大きかったですね。
「日本で一番になる会社をつくる」というのは、その当時、周りの人にずっと言い続けていて。
「一番になるんじゃないんですか」「お酒、買ってきましたよ」とその従業員は声をかけてくれて。
そういうことが続いて、「もう一回やろうかな」と思えたんです。
身近で、従業員の方たちの悩みも聞いていましたし、多分、その従業員は私と一緒にいてワクワクしたのかなと。
再起できたのは、信頼関係が構築できたからというのはあると思いますね。