※本ページ内の情報は2024年1月時点のものです。

トライオン株式会社は、メジャーリーガーからスポーツを愛する草野球チームの子どもたちまで広く使用される野球グラブのOEMメーカー。委託会社のブランドで製品を設計し生産するという裏方の役割を果たし、今やトップシェアを誇る。

また、長年のグラブ作りで培った製造技術により、製造時に余るグラブ用の革でオリジナルバッグを製造し、3つのブランドが生まれた。本来なら端材とされる材料で作られたバッグは、グラブ用の革の耐久性と柔らかさを併せ持つ優れた特性と独創的なデザインで話題の商品となった。

しかもフィリピンとベトナムの2拠点の工場に対し、単に親会社と子会社の関係でグラブやバッグの製造を依頼するのではない。それぞれがもつ風土や創造力、スキルや知性を活かし、自立して尊重し合えるビジネススタイルを目指している。

貿易会社から始まり、1975年に野球グラブメーカーとして「唯一無二」の地位を築き上げたトライオン株式会社。これからも「唯一無二」であり続けるために、国内だけでなく海外においても仕掛けようとしている独創的な展開について、代表取締役社長の青木氏に聞いた。

長年の海外ビジネスの夢を父の会社で実現

ーー青木社長はどうしてトライオン株式会社に転職されたのですか?

青木幹:
もともと海外志向が強く、外国との繋がりのある仕事をしたいと思っていたため、父の仕事に興味を持ちつつもすぐに入社するつもりはありませんでした。しかも弊社は1985年のプラザ合意で多額の為替差損を被り、そもそも人を雇い入れる状況ではなかったのです。

結局大卒後の就職活動では希望していた商社とは縁がなく、大日本印刷に入社しました。大日本印刷は業界No.1だったので、何か学ぶことがあるはずだと思ったことが理由です。

その後、父は1987年にフィリピンに進出し、現地で自ら陣頭指揮をとることで事業を立て直し、ビジネスの素地をつくることができました。そのころ、僕は大日本印刷で勤務4年目に入っていましたが、海外志向が断ち切れず、転職活動を始めていたのです。

するとそれを知った父が「海外の仕事をしたいなら入社してはどうか」と言ってきて、父にお願いをして入社することになりました。

「The one & only 1 by No.1」の社是に秘められた思い

ーー「The one & only 1 by No.1」(唯一無二)とはどのような思いが込められているのでしょうか?

青木幹:
野球グラブのOEMメーカーとして、弊社はおそらく世界的に1番のシェアがあると思っています。これは今後もずっと守り続けたいです。

「only 1(オンリーワン)」には、他社では真似できないユニークな素材でバッグを作りたいという思いから、「唯一無二」の意味を込めています。

僕の考えは日頃から社員のみなさんと会話して共有するようにしています。理念の浸透により、社員の皆さんに自覚が生まれ、最終的に会社の成長につながると思うからです。No.1としてグラブ製作の業界を引っ張っていくことが弊社のミッションであり、そこから生まれたバッグ製作がonly 1であると考えています。

とはいえ、もちろん会社ですから組織は重要なのですが、組織だけ優先するのではなく、個も大切にしなければならないと思います。「個が生きる組織でありたい」それがいわゆる今の理念であり、社員に伝えていることです。

グラブ製造の技術と知識が生んだバッグビジネス

ーーどうしてバッグブランドを立ち上げようと思ったのですか?

青木幹:
グラブ製造で残った革が「もったいない」と感じ、別の商売に拡張したいと思ったことがきっかけです。身近にある材料、身近にある設備、そして培ってきた縫製技術、それらを使って何か作れないかと思ったときにバッグが浮かびました。

今でこそ再利用だとかSDGsとか叫ばれていますが、そこはOEMビジネスから教えられたことでもあったので、特段新しいことをやっている意識はありませんでした。

バッグもライセンスブランドの多くは野球グラブと同じく、OEM製造委託が主流でした。弊社も最初はOEM製品を製造していたのですが、あるときお客様であった問屋さんが倒産してしまったのです。

それまで積み上げてきたバッグ製造のノウハウがあったので、他の問屋さんにセールスに行くのか?それとも諦めるのか?と考えましたが、結局、野球グラブではできない自前のブランドでやってみようということになりました。

ーーブランド展開の数を増やされたのはどうしてですか?

青木幹:
最初は「TRION(トライオン)」というブランドだけでした。野球グラブの素材をベースにした、非常にカジュアルで価格バリューのあるブランドになりました。そのとき知り合いの方が、パッチワークデザインの他にも「グラブの革の特性と自前の縫製技術を合わせた商品も作ったらいいのでは?」とアドバイスをくれたことから、マチのないバッグが生まれました。

すると、当時マチの薄い革製の手提げバッグはどこにも販売されてなかったため、ものすごく売れたんです。しかもバッグ屋さんではなく、ハイセンスな文具店で売れました。逆にバッグ屋さんは相手にしてくれなかったのです。そして今でも人気のロングセラーアイテムになっています。

その後もう少しデザイン性が強く、ハイエンド向けのブランドを作りたいと考え、「TOMOE(トモエ)」を立ち上げました。こちらは有名デザイナーとコラボしたミニマルなデザインが特徴のブランドです。次第に大手百貨店でも取り扱ってもらえるようになり「TRION(トライオン)」とは異なるターゲットに向けたブランドに成長しました。

次なる「ikot(イコット)」は、天然素材のバスケット商品です。天然素材で作ったバスケットバッグはほとんどがOEMなんです。セレクトショップで売られている商品は実は弊社が作っていたということは結構あります。

どうしてバスケット商品がメインのブランドを立ち上げたかというと、弊社の工場があるフィリピンにはその材料になるアバカ、ラフィア、ラタンなどの植物が豊富に自生するからです。

地産であるアイテムとレザーを組み合わせることでバリューを上げようと取り組んでいます。雑材と呼ばれていたカゴバックをデザイン的にも品質的にも一からちゃんと作ろうという思いで「ikot(イコット)」を立ち上げました。

海外拠点の各々が協力し自走できる展開を実現

ーー今後どのような海外展開をお考えですか。

青木幹:
弊社がつくるアイテムは労働集約型の産業です。できるだけ工賃の安い国を次々と渡り歩くので「ボヘミアン産業」なんて言われていたこともあります。でも工賃ばかり求めているとキリがないんです。

工賃だけではなく、商品開発、品質、デリバリーといった価格以外の競争力が必要です。現地法人として設立したフィリピンやベトナムの工場は、弊社の製造拠点です。通常は製造拠点は親会社からのオーダーに頼るわけですが、僕は各拠点が自走できるビジネスも確立させようと考えています。

実際にフィリピン現地法人が独自に請負製造しているアイスホッケーやラクロスのグローブについては、本社は直接的には関係してないんです。フィリピン工場が企画営業もしています。しかもその収益を本社には還元せず、そこで儲かったお金でもう一度ビジネスをやりなさいと言っています。

そうすると仮に本社からのオーダーが少なくなったとしても生き延びるじゃないですか。そうすることで野球グラブ製造が続けられるという相乗効果も生まれるんです。ベトナム現地法人でも同じように、ボクシンググローブのOEMビジネスを直接やっています。

互いに自立し尊重し合える関係でいたい

ーー社長が目指す将来の目標についてお聞かせください。

青木幹:
工賃は大事なファクターですが、僕はそれだけを求めてフィリピンやベトナムに投資したわけではないと現地の人に伝えています。ある意味僕らはその土地にお邪魔しているんですよね。

だからその土地の人にもメリットになるようにするのが僕らの責任なんです。なので、親会社からの請負だけに頼らなくてもいいビジネスができたら、ちゃんと独立できるかなと思っています。

国内本社は現地法人にとっては親会社ですが、でもそれはあくまで資本的な部分であって、できる限りフラットな関係を築きたいと考えています。本社はコアビジネスである野球グラブビジネスを堅持し、バッグは自社ブランドをさらに伸ばしていく、それと同時にフィリピンとベトナムの法人は製造拠点のみに留まらず新たなチャレンジを続けていってほしいと考えています。

そうすることでそれぞれが自立し、尊重し合えるわけで、これこそが共生だろうと社員に話しています。これが僕の目指す将来の形です。僕が社長でいる間にしっかり確立したいです。

なので、「現在幸せですか?」と聞かれたらやりたいことをやっているので幸せといえますね。楽しいことと好きなことができています。僕は父親から受け継いだ2代目ですが、零細企業だったところから、海外の2拠点も含めた企業グループの形に発展させていくことが使命だと思っています。

編集後記

もともとOEMメーカーだっただけにバッグ販売のノウハウがなく、徐々に築き上げてきた。現在はECが販売の中心となっている。購入者が自分でいろいろ調べられる時代だからこそ、メーカー側は商品の特性や生産までの背景をしっかり伝えなければと話す青木社長。

日本とフィリピンとベトナムの人が集まって製品が作られるトライオン株式会社の商品製造の裏側には、青木社長がそれぞれの人を大切にする熱い思いが込められている。

青木幹(あおき・かん)/1963年大阪府生まれ。同志社大学を卒業後、大日本印刷株式会社に入社し4年後の1991年にトライオン株式会社へ入社。2003年に代表取締役に就任。フィリピン、ベトナムに現地法人として工場を設立。