半導体製造装置は日本のメーカーが多くのシェアを占めているが、その半導体製造装置には日本の中小企業の技術の粋が集結している。
第五電子工業は中小企業の規模にもかかわらず、世界中で使われる装置、半導体製造装置に組み込まれる部品を作り、メーカーを支えている一つの企業である。
同社の代表取締役社長、水田光臣氏はもともと他社のサラリーマンであり、異業種へ飛び込んだ経験を持つ。現在までの苦労について、水田氏に話を聞いた。
「好機逸すべからず」の精神で他業界へ
ーー住友金属工業に勤務していた時に、第五電子工業創業者のご息女である玲子さんと結婚されたそうですが、その際に社長になることを決意されたのでしょうか。
水田光臣:
義父が会社を経営していることを知ってはいましたが、第五電子工業に入社することや後を継ぐことに関して明確な話はありませんでした。
結婚後しばらくして、仕事の手伝いをしてほしいと誘われ入社しました。その際、「私が社長になるということですか?」と聞いたら、義父は特にそれを決めているわけではありませんでした。実力がある場合は社長になるだろうし、実力が無ければならないだろうというような言い方でした。
当時は住友金属で「部長くらいにはなりたいな」と漠然とした展望しかもっていませんでしたが、義父から声をかけられたことは、良いチャンスだと思いました。親が経営者か、自分で起業をしない限り、普通はなかなか社長になる機会などないですからね。
仕事の出発点はセールスマネージャー
ーー未知のモノづくりの世界に飛び込まれて、どのような経験を積まれたのでしょうか。
水田光臣:
まずは現場での修業を想定していましたが、営業部長を拝命して何も知らないままに仕事が始まりました。
今、社員によく「社長はなぜ現場のことをよく分かっているんですか」と言われますが、分からないことばかりだったからこそ必死にいろいろなことを覚えたんです。
私は“目学部”“耳学部”と言っているのですが、自分で見て聞いて学ぶこと。当時から何かあると「水田君がやりなさい」と言われて。「ここはこういう風にした方がいいのでは?」と意見すると「じゃあお前がやれ」と。
また、営業だけではなく、さまざまなことをやりました。購買の業務も行いましたし、製造現場も見なければいけませんでしたし、品質保証など対外的なことも全部1人で対応し、フラフラでした。30代は会社に何日も泊まるような多忙な日々でしたね。
アウトソーシングから内製化へ
ーー営業部長を務め、常務取締役に就かれて、その後、社長に就かれて現在にいたるまで、さまざまな壁があったかと思いますが、エピソードを1つお聞かせください。
水田光臣:
そうですね、仕事のキャパシティを増やすために外注先を全国で探し回りました。外注先を獲得することでまた仕事を受けて、ほぼ商社みたいな状態でした。
社内ではできないような大きなサイズの素材や扱っていない材質も受けて、入ってきた仕事をどんどん外注に回すという状態が続いていました。
先に仕事をとれるだけとっておくという昭和・平成初期のやり方では会社は伸びず、まずは仕事を完遂するだけのキャパシティがなければならない、ということをこの頃に学びました。
外注する利点は、内製と違ってすぐに立ち上がること。特に常務から社長になった頃などはリーマン・ショック明けで、皆さん厳しさが身に沁みているから、どんな仕事でも受けてくれました。
ところが、5年ぐらい経つうちに景気が回復してくると、当然ながら外注先も仕事を選び始めて、みるみるうちに離れていきました。そこでようやく「外注はあてにできない」と痛感し、社内でできる仕事のキャパシティを拡大し、足場を固める方に舵を切りました。
今ではほぼ外注はせず、基本的に社内で行います。昔とは違い、受注する案件は弊社でできることのみ、得意とするステンレスの溶接を中心に受注しています。
第五電子工業の溶接の強み
ーー貴社はステンレスの溶接に定評がありますが、同業他社と比べたときの強みを改めてお聞かせください。
水田光臣:
溶接の質、量、幅が弊社の強みで、多くのお客様から信頼をいただいていると感じます。一般的に加工プラス溶接という会社が多く、加工は弊社よりできるところはあります。
しかし、私たちが闘っている地域のライバル会社さんに「第五電子工業さんの溶接は並外れている」と言っていただいているということ、つまり、溶接で有名だということを商社経由で聞くんですよ。
溶接と一口に言っても、手溶接、TIG溶接、自動溶接、TIGのロボット溶接、レーザーの手溶接、レーザーのロボット溶接…これらが全て揃っている会社はなかなかないのです。
「溶接は第五電子工業に出せ」という感じで、お客様の紹介で新たなお客様が来てくれますし、お客様の6割から7割からは「第五電子工業さんでしかできないから」と言われて仕事をいただいています。
編集後記
モノづくりの現場を目で見て耳で聞いて学ぶところから始まり、がむしゃらに仕事に取り組んできた水田社長。
会社を伸ばすためにアウトソーシングを活用した時期を経て、その後は選択と集中により足場を固め、自社の得意分野を確立させた。
社員からの、そしてクライアントからの厚い信頼は、これまでの格闘の賜物だろう。
100年継続企業を目指す第五電子工業。これからも日本そして世界の半導体業界の発展に貢献してくれるはずだ。
水田光臣(みずた・みつおみ)/1966年7月9日東京都稲城市に生まれる。1972年より神奈川県相模原市。東京都立大学工学部土木工学科卒業後に住友金属工業(株)に入社、建設技術部開発企画室に配属される。1997年1月に五十嵐文男(義理の父)の経営する現会社に入社、営業部長となる。常務取締役を経て、2009年7月に代表取締役社長に就任し現在に至る。