アミタホールディングス株式会社は、リサイクルという概念が普及していない頃から、いち早く環境・サステナビリティ事業に取り組んできた企業だ。
同社の代表取締役会長、熊野英介氏は持続可能な社会に向けて「市場を拡大したのではなく、新たに創り続けてきた」と話す。
順風満帆とは言えなかった同社が、どのようにして環境・サステナビリティ業界を牽引する企業となったのか。経営者の熊野氏に、その歩みを聞いた。
好奇心のままに挑戦を続けた学生~若手社員時代
――どういった幼少期を過ごされたのか、そしてどのようにして貴社へ入社されたのか。生い立ちや経歴を教えていただけますか。
熊野英介:
私は3月生まれでほかの子と比べて体が小さく、運動も不得意な少年でした。また両親が離婚して祖母に育てられたこともあり、劣等感の塊でした。そんな自分の劣等感を薄めようと、お調子者キャラをきどることで「自分自身が存在する意味」を感じていたことを覚えています。
中学2年生のときに大阪万博があり、万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。そのときに私は、海が年々汚れているにも関わらず、「進歩と調和」なんて嘘じゃないかと感じたのです。人間は幸せになろうと努力をしているけれど、社会はどんどん不幸になっている。先生たちは「勉強しろ」と言うけど、勉強して努力すれば社会は良くなるのかと考えると疑問で、なんだか腑に落ちませんでした。
高校生になり、進路を考えるきっかけとなったのが、水俣病の実態を伝える写真集を見たことです。この写真集を見て、健康なのに世間に不平不満ばかりを言っている自分が恥ずかしくなり、それと同時に、人生を過ごすのではなく生きることについてしっかりと考えたいと思うようになりました。
――高校卒業後はどのような仕事に就かれたのでしょうか。
熊野英介:
生きることについて考えるために、ベトナム戦争を撮影する戦場カメラマンになろうと最初は考えました。
そこで私は、現地を見に行くために大学で報道カメラマンになるための勉強をしていました。しかし、大学を卒業する前にベトナム戦争は終焉を迎え、その夢は破れてしまったのです。夢が破れてからは、教師を目指したり、テキスタイルの会社に入社したり、いろいろなことに挑戦しました。
そんな折、東京で働いていたときに祖母から「不景気で会社の業績が悪くなってきているから、兵庫に帰ってきて手伝いなさい」と言われ、1979年に当時のスミエイト興産株式会社(アミタ株式会社を経て現在はアミタサーキュラー株式会社)に入社しました。
ニーズのない場所に市場を創る難しさと面白さ
――当時、アミタホールディングス株式会社になる前のアミタ株式会社は、まだ会社の規模も大きくなかったかと思います。
熊野英介:
まだ会社に3人しかいませんでしたからね。人が少ないからこそ、資金繰りや営業、現場対応、総務などを一通り学べたのは良かったと思っています。
当時はまだ廃棄物をリサイクルするという考えが浸透しておらず、いろいろな企業をまわってリサイクル資源を提案しましたが「大事な商品にごみなんかつかえるか!」となかなか受け入れてもらえませんでした。また、代替資源の原料となる廃棄物を集めようと思っても「うちには廃棄物なんかない」と断られてばかりでした。
その後、信用金庫からも各企業へ廃棄物を出すようお願いしてもらったところ、徐々に廃棄物が集まるようになりました。
そのとき、「市場にニーズがないのはチャンスでもある」と思ったのです。というのも、ニーズがないということは「他の会社と競合しない」ということだからです。
――リサイクルという概念すら浸透していなかった時代に、どういったきっかけで売り上げが伸び始めたのかが気になります。
熊野英介:
関西だけでなく東京の市場も開拓しようとしていたときのことです。関西で一緒に仕事をしていた会社の課長が東京に転勤し、また一緒に仕事をしようと声をかけてくれました。このとき、良い関係を構築できていれば、チャンスは巡ってくるのだなと実感しました。
あとは、人は必ずしも合理だけで動くのではなく、時には情理が人の心を動かすきっかけになるということも学びました。
大不況の煽りを受けながらも市場を開発し続けた
――その後、貴社では森林認証の取り組みが始まりましたね。
熊野英介:
当時、資源を適切に管理している事業者を評価するための森林認証でサプライチェーンを見える化するという話が出ていました。
弊社は「この世に無駄なものはない」という精神を持っているので、この「見えないものを見える化しよう」という考えは弊社にぴったりだなと。そこで1999年、日本初の森林認証審査会社として環境認証審査サービスを始めました。
――新しいことに挑戦される一方で、アジア通貨危機など不況の不安もあったかと思います。
熊野英介:
1997年に山一証券が倒産してから、ニュースを見るとリストラの話ばかりでした。私自身、自分がやっていることの方向性は間違っていないと思いつつも、1999年には身体に異変が出るほどストレスが溜まっていました。
その後2009年に、産業廃棄物・一般廃棄物の管理に必要なデータをクラウド上で一元管理するサービスの提供を開始しましたが、これも最初の頃はニーズがなかったのです。それが今では、製造業において多くのシェアを獲得するまでに成長し、利益も伸長しています。
決して順風満帆とは言えず、ここまで利益を出すまでには本当にいろいろな苦難がありました。
これからの時代に必要なのは想像力・本質主義・編集力
――貴社は時代とともにさまざまな苦難を乗り越えてこられましたが、これからの時代はどのような人材が求められるとお考えですか。
熊野英介:
情報収集や分析においてはAI技術に敵わないため、これからは知識を知恵に変換できる人材が必要だと考えています。
そのために必要な要素は3つあります。1つ目は想像力。2つ目は、表層だけでなく本質を理解する本質主義。3つ目は、これら2つの力を統合する編集力です。
そういった人をどのように育てるのかが今の弊社の課題で、現在は社員向けにこの3つの力を養うための思考の訓練などを行っています。
編集後記
「人類史上初めてのことをやらなければいけない」という思いから、ジャパン・サーキュラー・エコノミー・パートナーシップの運営を始めた熊野会長。この活動では、約60社の企業が持続可能な社会の実現を目指して、新事業共創パートナーシップを結んでいる。
市場を拡大するのではなく開発し続けてきたアミタホールディングス株式会社が、今後も社会のニーズを形に変えた革新的なビジネスを生み出すのが楽しみだ。
熊野英介(くまの・えいすけ)/1956年兵庫県生まれ。1979年アミタ株式会社(現アミタサーキュラー株式会社)入社。専務取締役を経て、1993年代表取締役社長に就任。2010年アミタホールディングス株式会社代表取締役会長兼社長、2021年代表取締役会長兼CEO、2023年代表取締役会長兼CVO(最高事業構想経営責任者)。2009年より公益財団法人信頼資本財団代表理事も務める。「アミタグループでは、能登半島地震支援のため「ひと・つながり募金」を受付中。(2/29まで)詳細はこちら」