※本ページ内の情報は2024年8月時点のものです。

日本ビーテーエー株式会社は、深孔(深穴)明け加工を事業としている会社だ。取引先は数千社を超え、業種は航空宇宙、自動車、鉄道、造船、鉄鋼など多岐にわたる。日本の重工業を縁の下で支える存在である。

会社を率いる矢吹社長は、もともとはいくつもの外資系企業を渡り歩き、成果をあげてきたビジネスパーソンだ。社長就任後に次々と組織改革に取り組み、同社の成長をけん引してきた。

古い慣習が色濃く残る社内を変えるのは大変でした、と話す。今回は改革にいたる道のりをひもとくべく、お話をうかがった。

外資系を渡り歩いた末に、義父からバトンを受け取った

ーー大学卒業後、最初のキャリアに日本郵船を選ばれたのはなぜでしょうか?

矢吹昭子:
私が大学を卒業した年は、男女雇用機会均等法が施行される前年で、4年制大学を卒業した学生の採用には男女格差がありました。その状況のなかで、女性にも門戸が開かれていたのが日本郵船でした。推薦されるには学内選考が必要で、それは4年間の平均成績が4.2以上で、かつ学部長からの推薦が必要でした。その社内選考をもらうのが難しかったという点が、私のチャレンジ精神をくすぐりました。

日本郵船では水泳部に入り、飛田給のプールで練習し三菱系企業の対抗戦に出たり、会社で部対抗のボート大会があり戸田に泊まり込みそこから丸の内まで出勤したり、女性の同僚や会社の先輩たちとの関係も有効で会社員生活はとても楽しかったです。バブルの時代でもありましたしね。

しかし、当時キャリア的にはやはり男性中心の会社で、会社側も女性の積極的な登用には慣れてはおらず、キャリアの限界を感じていました。

このままではキャリア的に行き詰まると思い、アメリカでMBAを取ってキャリアチェンジをしようと思い、会社勤めのかたわら受験勉強をしました。猛勉強の結果、運良く合格し、BostonにあるMITに留学する為、日本郵船に10年間ほど勤務した後、退職しました。

ーー時代的な背景もあっての選択だったのですね。その後はどのようなキャリアを歩まれたのでしょうか。

矢吹昭子:
帰国後は、金融、耐久財、消費財メーカーなど複数の外資系企業で、マーケティングを中心に、幅広い業務を経験しました。帰国した翌年に出産したので、子供を育てながら外資系企業で働きました。海外出張も多く、行くと1~2週間帰れない中、主人も同様の状況でしたので、ベビーシッターさんや母にサポートをお願いしながらキャリアを追求していきました。

義父から「自分が創業した会社に入らないか」と誘いを受けたのは2009年。主人は経営コンサルティングとして活躍しており義父の会社に入らない事は伝えていましたので、主人の代わりにという事もあったのでしょう。

会計・財務を見れないと経営はできない、入社にあたっては簿記2級を取得しておくように言われました。MITでFinanceは勉強しましたが、簿記となるとまた違います。簿記2級を取得し2010年に入社いたしました。社長が2016年末に倒れるまで社長の下で働きましたが、義父の下で働いていたことは大いに勉強になりましたし、楽しかったです。取締役会、株主総会での承認を経て、正式に2017年春から社長としてバトンを引き継ぎました。

製造業の異文化にカルチャーショック!次々と改革に乗り出す

ーー改めて、貴社の強みを教えてください。

矢吹昭子:
深孔明け加工は設備産業です。大きい材料、重い材料、長い材料、大きな径の材料などにも対応できるよう、機械が充実しています。設備があってもその設備を使いこなすための技術的なノウハウを次世代につないでいかなければなりません。

先輩の仕事を見て覚える時代ではありません。先輩方から引き継がれたノウハウ含め、手書きのメモ書きをシステム入力しクラウドで共有する事でノウハウの引継ぎ、共有、見える化を推進しました。

弊社の現場は昼夜二交代制をとっておりますので、連携がうまく機能していないと仕事に差し支えますので、もともと現場の方々のチームワークは悪くありませんでしたが、同じ仕事をしている東西二つの工場を一つの事業部にして、様々な事を見える化した事で、営業と現場の連携、離れた場所に位置する2工場の連携が更に緊密になりました。この昼夜二交代制のおかげで、他社と比較すると半分のリードタイムで納品ができるのが大きな利点となっております。

ーー外資系企業から貴社に入社されたときに、どんな風に感じましたか?

矢吹昭子:
カルチャーの違いに驚きました。義父が創業者かつ長く会社を経営していましたので、そういう意味では怖いワンマン経営者でした。トップダウンに慣れてしまっているのか、皆さん、自分の意見を言いません。また、私は文系で技術の事も分かりません。工場で技術の事を聞いても教えてもらえない事もありました。

外資系は一人ひとりがプレイヤーとして活動しますが、製造業はチームプレーです。現場からのボトムアップが非常に重要で、経営者として、それをいかに引き出していくかに注力しています。異なる点はさまざまありますが、それを楽しいと感じますし、やりがいにもつながっています。

ーー異なるカルチャーをもつ会社を変えるために、具体的にどのようなことに取り組まれたのでしょうか。

矢吹昭子:
私が入社以来進めているのは、先にもお話ししました業務のデジタル化です。以前は職人が各自のノートに手書きでやり方を書くなど属人化した状態だったのですが、デバイスに入力して一元管理する仕組みを整えました。現場から反発の声もありましたが、意図を何度も伝えて実行してもらいました。従業員の意識を変え、動いてもらうのは本当に大変でした。

評価制度も刷新しました。等級制度を策定し、評価項目の加点対象の1つに、次世代に自分の知識を教えることを加えました。つまり、自分だけでノウハウを抱え込まず、伝えることで評価が高くなり、なおかつ自身の業務負担も軽減するという仕組みです。

ーー今後の展望について教えてください。

矢吹昭子:
会計に引き続き全社的なデジタル化を進めているところです。これにより、全社的な活動の可視化で効率化を更に進めます。デジタル化により業務を効率化することで得た時間を営業活動にあてたいと思っています。

また当社は長く働いてくださる従業員が多いので、逆に言えばうちのやり方しか知らない部分もあります。営業顧問を招き、今の営業活動を今一度見直してみるという取り組みにも着手し始めたところです。

今まで当社があまり対外的な取り組みをしてこなかった西日本からアジア圏の案件にも可能性を感じており、積極的にアプローチをし始めております。重工業における下支えとして、弊社の役割を果たす余地はまだまだあると見通しを立てています。

合言葉は「バッドニュース・ファースト(Bad News First)」

ーー社内文化について、日頃から社員の方に伝えていることは何でしょうか。

矢吹昭子:
「Bad News First!」「Answers First!」という考え方を伝え、会社の慣習、文化として徹底するように努めています。つまり、「良いニュースはゆっくりでよいが、悪いニュースはいち早く上にあげる、隠さない」という事です。

悪い事をいち早く聞くことで、早い対処が可能となり、問題が大きくならずに済みます。日頃から活発に意見交換をしながら、お互いの良さを引き出し合って、トップダウンとボトムアップの両方からみんなで一緒になって前に進んで行く文化を醸成してきたつもりです。

また、Answers Firstも非常に大事。起承転結ではなく、答えから話す。「私はこう思っています、なぜならば〜」という順番になります。これで、聞く方はこれから何が話されるのか分かり聞きやすくなる。起承転結だとこれからいったいこの人は何を話し出すのか分からない。これは会議の効率化に繋がりますし、思考の整理にもなります。

ーー今後も成長を続けるうえで、新しい仲間が必要になると思います。どんな方を求めますか。

矢吹昭子:
チームプレーができる一生懸命な人を募集しています。営業経験や能力は後から身につけられますので、マインドのほうが大切です。個人個人のノルマはなく、チームで成果をあげることを重視しています。努力した分は積極的に給与へ還元もします。

事業内容は、重工業業界の下支えですので、需要がなくなる可能性は低いと考えています。むしろ、今後拡大の可能性も大いにあります。そういう意味では安心して、生活基盤を充実させながらやりがいを見つけるチャンスがたくさんあると思います。ぜひ新しい仲間をお待ちしています。

編集後記

インタビューを通して、矢吹社長が見せる多彩な一面にひかれた。数々の改革を推し進めるには強い意志と情熱が必要だっただろう。ロジカルで端的な話しぶりは、長く外資系で活躍してきたことを裏付けるものだと感じられた。

同時に、社員に対する思いやりも言葉の端々から伝わってきた。製造業は従来の慣習が今でも残っている業界であり、課題もあるが、矢吹社長のリーダーシップのもと、日本ビーテーエー株式会社はこれからも成長を続けていくと確信している。

矢吹昭子/1959年千葉県生まれ。上智大学外国語学部卒業。日本郵船株式会社に入社し10年間勤務。その後、マサチューセッツ工科大学院(MIT)に留学。帰国後は外資系企業のマーケティングに従事。2010年日本ビーテーエー株式会社に入社。2017年、代表取締役社長に就任。