
1890年の創業以来、銀座を拠点に130年以上の歴史を持ち、江戸和菓子の伝統を守り続けてきた株式会社菊廼舎本店。看板商品である「冨貴寄(ふきよせ)」で多くの人々に愛される同社だが、一時は多額の借金を抱え、存続の危機に直面していた。その窮地を救ったのは、IT業界でのエンジニア・営業経験を持つ異色の5代目、井田裕二氏だ。「従業員がいかに無理なく働けるか」を経営の根幹に置き、無駄な動きをコストと捉える徹底した効率化により、かつて常態化していた過酷な長時間労働を改善した。この改革によって、就任時から売上高を約3倍の9億円へと成長させた。デジタル化が進む現代において、あえてアナログな「人の温かみ」に勝機を見出す井田氏に、老舗和菓子店の組織変革と未来への展望を聞いた。
異業種での経験と存続の危機からの再出発
ーーこれまでのご経歴についてお聞かせください。
井田裕二:
大学卒業後、一度は家業に入りました。しかし、当時は家業を継ぐ強い意志はありませんでした。業務とプライベートでメリハリをつけられるような、“着替えのいらない仕事”をしたいと考え、退職してIT業界へ転職したのです。
IT業界は若い人材が多く、30歳手前での挑戦は決して早いスタートではありませんでしたが、必死に知識を身につけ、システムエンジニアや営業として約6年間勤務しました。結果として、この時に培った論理的な思考が、現在の経営の基盤になっています。
ーーそこから再び家業へ戻られた背景にはどのようなきっかけがあったのでしょうか。
井田裕二:
転機となったのは2011年、35歳のときです。東日本大震災の発生と時期を同じくして、実家の経営危機が重なりました。当時の社長の父の体調もあり、店を畳むか続けるかの決断を迫られたのです。まさにマイナスからのスタートでしたが、「待ってくれているお客様がいるなら」と腹を括りました。廃業の危機という崖っぷちに立たされたことで、家業の存続に挑む覚悟が決まりました。
「自分が嫌なことはさせない」ITマインドによる徹底した効率化
ーー会社を立て直すために、具体的にどのような改革をしたのですか。
井田裕二:
かつての菊廼舎は生菓子が中心でした。伝統的な生菓子は大切ですが、毎日手づくりする必要があるうえに利益率が低く、作業が長時間化する要因になっていたのです。
私自身も夜通し現場で働いた経験があり、「自分が嫌なことは従業員にもさせない」と強く誓いました。そこで、IT業界で学んだ「無駄な動きはコスト」という考え方を現場に導入し、「従業員がいかに無理なく働けるか」を経営の根幹に据えたのです。具体的には、日持ちして利益率の高い「冨貴寄」を主軸に切り替えました。さらに、タイマー制御の電気釜を導入するなど、深夜や早朝の作業を減らすための設備投資を主導。前職の知識を活かしてネット販売(EC)を強化した結果、メディアの取材という追い風も重なり、売上高は就任時の約3倍となる約9億円まで拡大を遂げています。
ーーそういったノウハウは他の現場でも活かされましたか。
井田裕二:
2021年の新工場建設時にも活かされました。古い工場は手狭で、単に物を移動させるだけのお金を生まない作業時間が大量に発生していました。そこで新工場では、設計段階から人の動線と物の配置を緻密に計算し、原料の搬入から出荷までの流れを仕組み化。従業員がつくることに集中できる環境を整えました。この徹底した効率化により、生産能力が飛躍的に向上し、繁忙期で注文が増えても、現在ではほぼ全員が定時である18時台に退社できる環境を実現しています。無理な残業をほぼゼロに近づけながら、給与を安定して支払える組織づくりを実現しました。
「人の温かみ」を付加価値に 次世代へつなぐファンづくり

ーー実店舗にはどのような役割を求めていますか。
井田裕二:
現在、売上高の約3分の1をECが占めており、ECは全国のお客様へ商品を届ける「窓口」として機能しています。しかし、それだけではファンづくりは完結しません。工場では徹底して効率を追求する一方、実店舗は「対面でのコミュニケーションや安心感を提供する場所」と位置づけています。たとえば、店舗で提供する揚げまんじゅうは、お客様の来店状況を見ながら、揚げたてのものを少しずつ用意します。決して効率的ではありませんが、この効率化できない「人の気持ちがわかる温かみ」こそが、AIやデジタル化が進む時代において、最終的に選ばれるための付加価値になると確信しています。
ーー最後に、今後の会社の展望について教えてください。
井田裕二:
私の代における1つの区切りであり最大の目標は、これまでの借金を完済し、経営をマイナスからゼロに戻すことです。盤石な財務基盤と生産体制を構築し、次の世代が新しい挑戦に向けて自由に動ける土台を残すことが、私の果たすべき仕事だと定めています。機械化が進めば進むほど、最後に残るのは「人とのコミュニケーション」です。接客において「お客様の気持ちがわかる人間」を育成し、全国の催事などを通じて直接的なファンを増やしていく活動を強化する。これからも「心やすらぐ おいしいものを」という理念のもと、お客様、商品を贈られる方、そして従業員のすべてが幸せになれる会社を目指します。
編集後記
130年以上の伝統を持つ「銀座 菊廼舎」。その歴史に甘んじることなく、「無駄な動きはコスト」というIT思考を導入し、業績のV字回復を遂げた井田氏の手腕には目を見張るものがある。現場の過酷さを自ら経験したからこそ生まれた、従業員を疲弊させない仕組みづくりは、多くの企業にとって組織変革の指標となるだろう。徹底した効率化の根底にあるのは、お客様と従業員への深い愛情だ。伝統と革新を融合させた老舗和菓子店の、さらなる飛躍に期待したい。

井田裕二/1975年東京都生まれ、玉川大学卒業。IT業界を経て、2011年に株式会社菊廼舎に入社。2014年11月、5代目社長就任。