【ナレーター】
太陽光を始めとした再生可能エネルギーの専門事業者として、成長を続けるリニューアブル・ジャパン株式会社。
「すべての人を、エネルギーの主人公に。」をコーポレートスローガンに掲げる同社は、再生可能エネルギー発電所の開発、発電、運営・管理といった、再生可能エネルギーに関する事業を一貫して手掛けている。
2021年12月には本邦初のグリーンIPOとして、東証マザーズへの上場を果たし、現在は海外事業も推進中。再生可能エネルギーの普及による脱炭素社会の実現に寄与すべく、挑戦を続けている。
運命に導かれ起業へ至った創業者の軌跡と事業に込めた想いに迫る。
【ナレーター】
自社のビジネスモデルと強みについて、眞邉は次のように語る。
【眞邉】
再生可能エネルギー、特に太陽光の発電所をつくりあげます。それを金融商品にして機関投資家に持ってもらいたい。つまり発電所をつくり上げるデベロッパーが、それを金融商品にしますと。
これは不動産とかでよくあるんですけれども、アセットマネージャー、それを再生可能エネルギーにおいてできないかと。それを考えて、ずっとやり続けたのが当社で、もうできるようになりました。当社は再生可能エネルギーのデベロッパーであり、アセットマネージャーです。
運用している資産でいいますと、3500~4000億ぐらいになると思うんですけれども、日本でもトップティアだと思いますし、海外のデベロッパーさんにお話ししたとしても、遜色ない、恥ずかしくない数字かなと思っています。
最近はそれに加えて、自分たちでも発電所を保有しましょうということもやらせていただいております。
今までは自分たちのために、そのサービスを自分たちが持っているエクスパティーズを使っていたんですけれども、最近は他の会社に対しても、例えば発電所の管理といったサービスなどを提供しています。
1GWは大体原子力発電所の電源と同じぐらいなんですけれども、これを2GW、つまり4年で倍にしようと考えております。
そうすると日本でも1番、もしかしたら2番目にはなれるかなと思っています。
【ナレーター】
リニューアブル・ジャパンをけん引する眞邉の原点は、学生時代に遡る。高校卒業後、アメリカマサチューセッツ州立大学へ留学。その経験の中で得た気づきとは。
【眞邉】
例えば英語でビジネスをすることがありますけれど、英語がうまいからビジネスができるんじゃないんです。やはりカルチャーも含めて理解をしないとビジネスができないんですよ。
これ、日本人はとても弱いと思うんですけれど、そこのベースが留学を経験してできたのはよかったかなと思いますね。
【ナレーター】
ファイナンスの道を志していた眞邉は、1991年にリーマン・ブラザーズ証券に入社。当時の上司から得た学びが、今にも生きていると眞邉は語る。
【眞邉】
「今、お客さんをすべて無くしても3ヶ月で必ず新しいビジネスをつくれるから」と。つくれないとしたら、3つのうち何かが悪いんだと。選んだお客さんが悪いか、選んだ商品が悪いか、お前が悪いか。
この3つのうちどれかであり一切言い訳はするなと。こういうふうに言われましたね。
ここにはすごく大切なポイントがあるんですが、これは想像力なんですよね。あと、イノベーション。常に考えて物事をつくっていけということを当時の上司が初めて教えてくれたんですよ。
イノベーティブなことを考えながら創造していく、そんなことをやっていて。それがずっと慣れていた。それを怖いと思うのではなくて、慣れて、何かあったとしてもそれに対してチャレンジしようというのは初めのボスがこう教えてくれた。それだと私は思っていますね。
【ナレーター】
その後も順調にキャリアを重ねていったが、2008年にリーマン・ショックが発生。当時の心境について次のように振り返る。
【眞邉】
大きな流れというのはやっぱり大切だなって思いましたね。
自分ができると思っていましたけど、できなかった。いろいろな失敗もありましたし、人をうまくマネージメントもできなかったですし、新しい商売もつくりきれなかったなという気はしますね。
でもそれが良かったと思います。
ここまでこられたのは(リーマン・ブラザーズ証券の)外に出て、自分が任された日本の会社をうまく成長させることができなかったというのが、自分にとってはよかったんだろうと思っています。
ただ、リーマン・ショックが起きました。自分たちがコアでやっているビジネスを継続することがなかなか難しいという中で、太陽光、再生可能エネルギーに携わるようになりますと。これもだから“きっかけ”なんですよね。