医療の産業化を目指して世界市場を獲る!
日本最大の歯科医療グループの挑戦


DSヘルスケアグループ 代表・CEO 寒竹 郁夫

※本ページの情報は2017年3月時点のものです。

歯科医院の飽和状態が伝えられる昨今、歯科医師や業界自体の将来を不安視する声も聞こえる。そんな中、訪問歯科診療のパイオニアとして20年も前から取り組みを開始し、一歯科医院を日本一のヘルスケアグループに成長させたのが、デンタルサポート株式会社などからなるDSヘルスケアグループ代表・CEOの寒竹郁夫氏だ。

「日本の歯科医療界の未来は明るい」と力強く語る寒竹代表に、これまでの軌跡と今後のグループのビジョンを伺った。

寒竹 郁夫(かんたけ いくお)/開業歯科医を父に持ち、歯学部に進学。大学院での研究生活を経て、昭和62年(1987年)に29歳で歯科医院を開業する。平成元年(1989年)株式会社アイ・ケー・コーポレーションを設立。平成10年(1998年)に訪問歯科診療を開始し、同年12月には社名をデンタルサポート株式会社に変更。日本最大の歯科医療グループDSヘルスケアグループをつくりあげる。平成28年(2016年)にはDSヘルスケアグループの代表・CEOに就任。歯科を軸に医科や介護分野へとグループを拡大しており、「歯科・医科・介護のワンストップサービスの提供」を掲げて、国内外で医療・介護サービスを提供している。

医療法人と企業が両輪となって取り組む、これまでにない医療サービス

-DSヘルスケアグループとは、どのようなグループでしょうか。

寒竹 郁夫:
当グループは、基本哲学と理念を共有する医療機関や企業の集まりです。歯科系医療法人および個人医院、医科系医療法人とそれらをサポートする企業、歯科技工企業、介護系企業などで構成されています。歯科・医科・介護のワンストップサービスの提供を実現するために、医療法人と企業が有機的に結び付きながら展開しています。

歯科・医科・介護をすべてカバーして全国に展開しているのは当グループだけです。


-寒竹代表自身も歯科医師でいらっしゃいます。

寒竹 郁夫:
父親が開業歯科医だったので、当たり前のように歯学部に進学しました。とはいえ、父親の歯科医院を継いで開業医になるという気持ちにはならず、研究のために大学院に進みました。むし歯のワクチンを開発してノーベル賞受賞を本気で目指していたのです。
その中で海外留学の話をいただき、それをきっかけに真剣に自分の将来について考えました。結果、留学を断って開業への道を選び、昭和62年、29歳の時に千葉県の稲毛海岸で開業しました。

“日本一”を阻む危機

-グループ化の構想は当初からお持ちでしたか?

寒竹 郁夫:
開業するのであれば、日本一の歯科医療グループをつくろうと思いました。

戦国武将の中でただ一人「天下統一」を掲げていた織田信長の考えに倣い、全国展開するにはどうすればいいかを、当初から考えていました。開業3年目にはランドマークとして、自社ビルを建てました。しかしその直後にバブル崩壊です。金利が上がり、大変なことになりました。心労や無理がたたって、働かなければいけないのに、急性肝炎にかかり入院しました。

その入院中に司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んで思ったのです。幕末と違い、私はこれで命を取られることはない、再起できると。私は講演でよく言っていることがあります。「自分でろうそくの火を吹き消してはいけない、どんなに小さくても、心に希望の灯が残っていたらまた燃え上がらせることができる。」と。夢なき者に成功なし。私には夢がありました。

また、自分一人では限界があると気づき、組織をつくろうと思いました。医療法人を設立して分院を展開していきましたが、このままでは全国展開はいつになるのかと考えていた矢先に、訪問歯科診療に出会ったのです。障がいや高齢等の理由で寝たきりとなり、通院が困難な方の自宅や施設に歯科医師が歯科治療に出向くというものです。

今から20年前の平成9年にはすでに潜在的な需要があり、そして高齢化は今後ますます進むことはわかっていました。しかし訪問歯科診療に取り組んでいる歯科医師はほぼいない時代でした。当時は珍しかったことから新聞に取り上げられ、患者数は急速に増えていきました。そこで私は訪問歯科診療に経営資源をすべて注ぎ込んだのです。

-当時はなぜ競合がいなかったのでしょうか。

寒竹 郁夫:
疾患がある方への治療ですから、麻酔による事故や感染症等のリスクを恐れていたからでしょう。開業医は一度事故を起こしてしまったらおしまいだからです。当時の訪問歯科診療は行政が地域の歯科医師会に依頼して行う、という感じでボランティア的な要素も強く、体制があまり充足していませんでした。

しかし実際に取り組んでみると懸念されていたほど高リスクでなく、何より患者さんからも家族からも感謝される、社会的意義が非常に高いことだと実感しました。歯科医師が安心して診療に専念するためにサポートする専門チームを組んで、訪問歯科診療を展開するためのスキームをつくりあげると、あっという間に全国に広がりました。今も広がり続けています。

サポートする専門チームを株式会社に集約しました。医療法人と株式会社では展開のスピードが違います。将来性のある企業として、人材も資金も集まりました。

2度目の危機を経て気づいた“企業理念”の重要性

-人材と資本を得て、拡大は順調に進みましたか?

寒竹 郁夫:
いえ、なかなかスムーズには行きませんでした。

初期の頃には株式会社の買収を持ちかけられたこともあります。事業の将来性を評価され、破格の金額を提示されましたが、先方の医療に対する姿勢に自分との相違を感じ、断ると幹部社員を引き抜かれてしまいました。ある日突然、15人が患者情報とともにいなくなったのです。会社の資産が無くなったも同然です。

その事件を経て、こんなことではいけないと、私は理念を医療法人、株式会社の全員に浸透させようと考えました。“医療の倫理と企業の論理の融合”です。

患者さんのために社会に奉仕する医療法人と、適正な利益を上げて組織を運営し国を豊かにする株式会社のそれぞれの理念の良いところを併せることで、医療界は次のステージに進むことができるはずです。理念を一人ひとりに浸透させることが経営者の務めと思い、実践していく中で、組織はまた成長していきました。

医療産業の確立のために、歯科医療のグローバル展開の必要性を語る寒竹代表。

-なぜ規模や利益の拡大に繋がったとお考えですか?

寒竹 郁夫:
理念を共有し腹に落とすことで、自分たちのやっていることに意義を見出せたからだと思います。私たちは「医療の産業化」を目指しています。日本の社会保障費は膨張を続け、税金はどんどん投入されて国民の負担も増える一方。世の中は閉塞感に満ちています。しかし医療が国のコストとして在り続けるのではなく、産業として国を支えることができると理解すれば、自分たちのしていることの価値が見えてきます。


-医療を産業として成り立たせるためには、どのようなことが必要でしょうか。

寒竹 郁夫:
第一にグローバル展開。海外から利益を上げ、自動車産業に代わるような産業にすることです。

日本の医療技術は高く、特に日本の歯科医療は世界から求められています。予防医療や再生医療、インプラントや矯正といった全てを巻き込みながら、海外に目を向けた一つの大きな産業にしていかなくてはなりません。デジタル化によって世界との垣根は低くなってきています。入れ歯や被せ物等を製作する歯科技工においては、世界中どこからでもデータで仕事のやり取りができるようになってきています。もう口腔内の型を取って模型を作って、というアナログの時代ではなくなりつつあります。その分野における日本の技術は世界トップレベルで、なおかつ、ソニーやパナソニックといった先人が、品質の良いメイド・イン・ジャパンというブランドを、すでに浸透させてくれています。

日本の医療のグローバル展開と産業化の突破口は歯科技工にあると思っています。当グループは現在、中東を始め、ASEANや中国などのアジアに拠点を広げており、ここは資本を強化したいところです。

日本の歯科界には、無限の可能性がある

-今後必要とされるのは、どのような人材でしょうか。

寒竹 郁夫:
世界で活躍したいと思っている人。総合職方はもちろんですが、特に歯科医師、歯科衛生士、歯科技工士などの医療資格者には魅力あるフィールドを提供できると思っています。

また、当グループの業務は訪問歯科診療だけでなく、外来やマネジメント、教育など国内外に豊富なバリエーションがあります。年齢だって関係ありません。60歳を過ぎていたとしても、訪問歯科診療に伺う80歳代の患者さんからすれば息子が来てくれたように嬉しく思う方もいるのですから。

院長や理事長として組織運営や経営を目指すこともできます。より良い人材を育成するために、研修制度もより充実させていくつもりです。インフラはもう整備されていますので、どんな方でも未来が描けるのです。


-若い医師や学生に向けてメッセージをお願いします。

寒竹 郁夫:
今後の日本の歯科界は寡占化が進むでしょう。しかし、視点を世界に変えれば、活躍の場は限りなくあります。

当グループは、しっかりとした臨床の現場を持ち、日本最大の規模で展開しています。また、海外においても歯科・医科クリニック、歯科技工の拠点を持つ実績もあります。そのため、日本の歯科医療技術を求める世界中からオファーが来ます。

視野を広く持てばチャンスはいくらでもあります。自分たちの将来に夢と希望を描いていきましょう。