夢を叶える、ふたつの星のダイヤモンド“Wish upon a star”を主力商品に、宝石の新しい価値を世に広めたフェスタリアホールディングス株式会社。

業界に新風を巻き起こした同社を率いるのが、3代目社長の貞松隆弥氏だ。縮小が続く宝飾市場にありながら突出した成長を続け、長崎の眼鏡店を一気に全国規模のジュエリーチェーンに飛躍させた。

だが成長の過程では、貞松社長には常に大きな不安が付きまとっていたという。その憂いを払い、宝石が待つ不変の価値を信じることができたのは、フェスタリアホールディングスの理念ともなる、ある言葉との出合いだった。

約3億円の負債から逆転するための一手

「2億6,000万円…」

病に倒れた父の跡を継ぐため、26歳で故郷・長崎に戻った貞松社長。真っ先に求められたのは、銀行の借金の保証書に判を押すことだった。

それまで全く関心のなかった眼鏡店という家業の負債は、積もり積もって2億6,000万円。さらに5,000万円の債務超過にあることもわかった。

今にも逃げ出したい気持ちだったが、両親を見捨てることはできない。貞松社長のビジネスは、マイナス3億円からのスタートだった。

フェスタリアホールディングスの前身である株式会社サダマツは、貞松社長の祖父が時計屋を起こし、父の代で眼鏡屋に転換。だが当時の眼鏡の小売市場は約5,000億円で最大手が5分の1を握る寡占化状態であるため、伸び代が見えにくかった。

3代目となった貞松社長は起死回生の策として、さらなる事業転換を模索する。

そこで目を付けたのが、ジュエリー業界だった。当時はバブル崩壊直後。3兆円だった宝飾市場は半減したというが、それでも眼鏡の3倍の規模だ。一部の企業が市場を占有していることもない。眼鏡店時代からこだわっていた顧客管理のノウハウも生かせるマーケットであることにも、可能性を見出した。

だが、ジュエリーショップの企画書を作り様々な商業施設に売り込んでも、まだ実態もない店の話を誰も相手にしてくれない。もはやこれまでかと思ったそのとき、沖縄から出店話が舞い込んだ。

周囲の大反対を押し切って1993年に開店したこの沖縄1号店が、株式会社サダマツのみならず世界のジュエリー産業を変えていくとは、このときは誰も想像すらしていなかった。

直感とデータで確信した沖縄1号店の大成功

「当初は断るために沖縄に行った」と貞松社長は振り返る。

出店の打診があったのは、沖縄での開業が2ヵ月後に迫るショッピングモール。予定店舗の急なキャンセルに伴う穴埋め的なオファーだった。うれしくはあったが、長崎から沖縄は遠すぎる。初出店の地とは到底考えられなかった。

ただ、「断るにしても担当者と会って話したほうが、心象がよく、次回につながるだろう」という父のアドバイスに従って、貞松社長は沖縄の地を踏んだ。

ところが完成間近のショッピングモールを一目見て、貞松社長は出店を決意。その場で契約を交わして帰ってきてしまった。

「絶対に売れる!と感じました。でも会社の債務を知る親戚たちは、必死で出店を諦めさせようとします。沖縄に関する資料を持ち出し、全国で一番所得が低い、宝飾品は売れていないと説得するのです。」

「しかし私は、その資料を見て成功の予感が確信に変わりました。共働き率が日本一であり、核家族化が進んでいないので家庭の可処分所得は高い、それなのに預金率が低いのはお金を使う県民性があるということ。暖かい気候でアクセサリーを飾る胸元は開いているのだし、アメリカナイズされているので小学生がピアスをつけるほどアクセサリーは浸透している。宝飾品の購入額が低いのは、土産物か超高級品の宝石かのどちらかしか売られていないからではないか…?」

「親戚たちが『沖縄では売れない』というための資料は、私にとっては『売れる理由』にしか見えませんでした。データの意味は読む人によって変わるのだと、身をもって知りましたね。」


貞松社長の読みが正しかったことは、オープン初日から客が殺到したことで証明された。

沖縄の人は宝石を買わないのではなく、買いたくなるファッションジュエリーがなかったのだ。

宝飾店には類を見ない盛況ぶりはマスコミにも取り上げられ、瞬く間に評判になった。全国への多店舗展開が始まり、わずか9年で上場を果たすほどの成長を遂げていった。

疑念を氷解させたある言葉との出合い

ショッピングセンターだけでなく百貨店にも進出し、順調に業績を伸ばすフェスタリアホールディングス。しかし、貞松社長の胸の内には、成長に比例して募る危機感があった。

「なぜ、宝石は売れているのだろうか?」

貞松社長は幼いころ、祖父から「いらないものはなくなる。だから、なくならない仕事をやりなさい」と何度も言われていた。

腕の良い時計職人であるのに、時計のクオーツ化により修理の仕事が減り、父の代で眼鏡屋に変わるという経験をした祖父の言葉は、貞松社長を不安にさせた。

「美しいもの、資産価値のあるものは他にもあるのに、なぜ人は宝石を求めるのか」がわからなかった。

宝石が「なくならない」ものであることを確かめるため、貞松社長は多くの人に自らの疑問を投げかけた。

借金返済という当初のミッションを成し遂げた貞松社長は、フェスタリアホールディングスを次のステージにつなげる拠りどころとするために、宝石の本当の価値を知りたいと切実に望んだのだった。

「宝石だけは永遠だからね。」

答えはあるとき突然に、現代のダイヤモンド研磨の名工とされるガブリエル・トルコフスキー氏によってもたらされた。

貞松社長と親しくなったトルコフスキー氏はさらに言う。

ガブリエル・トルコフスキー氏(写真右)

「人類が誕生する前からダイヤモンドはあった。そして何十億年後に人類が滅びていても、ダイヤモンドはきっと輝き続けているだろう。ヨーロッパでは『bijou de famille(ビジュ ド ファミーユ)』といって、祖母から母へ、そして娘や花嫁へと『家族の宝石』を受け継いでいく習慣があるんだ。人間の命には限りがあるが、宝石は唯一永遠なものだから、人は大切な人に伝えたい想いを石に託すんだよ。」

「永遠だからこそ人は想いを託す」という言葉に、貞松社長は衝撃を受けた。

古来より御守りとしても用いられ、今なお人が宝石を求める理由に納得できた瞬間だった。

宝石は人に必要なものだからなくならない。資産価値、ファッション価値に並ぶ3つ目の大切な価値である精神価値に気付いた貞松社長に、もう迷いはなかった。

「自分の仕事は、『ビジュ ド ファミーユ』を伝えることだ。」

宝石は永遠だと確信したその日が、貞松社長のTurning Dayとなった。

フェスタリアホールディングスに確固たるミッションを定めたことが、後のジュエリー業界の定説を覆す大ヒットアイテムを生み出す原動力につながっていく。

“Wish upon a star”ダイヤモンド 誕生秘話

どうやって「ビジュ ド ファミーユ」を伝えていくかが、次の問題だった。

ふさわしい輝きを持つ宝石といえばダイヤモンドだ。だが、ジュエリーのデザインで理念を表現しようとしても、宝石はリフォームされてしまうことも多い。

そのため貞松社長は、全く新しいカットを生み出そうと考えた。

ダイヤモンドのカットの主流は100年以上も前からラウンドブリリアントカットであり、それ以外はファンシーカットと呼ばれ売れないことは業界の常識だったが、貞松社長は挑戦した。

思うように開発は進まず、多額の費用に「会社が潰れてしまう」と経理担当者から泣きつかれるほどだった。それでもあきらめない貞松社長にひらめきを与えたきっかけは、開発会議でのひとりの社員との会話だった。

「社長、地球最古のダイヤモンドは60億年前にできたそうですよ。」

地球が誕生して50億年なのに、そんなことあるわけないだろうと貞松社長は一蹴した。

だが懇意の学者に話を聞くと、「宇宙にはダイヤモンドと同じ物質でできた星が発見されています。流星だったかもしれないし、宇宙空間に浮かんでいたダイヤモンドが、地球が固まる際に取り込まれたのかもしれませんよ」というではないか。

貞松社長はその社員に星の話を伝えて謝った。すると、別の社員が言った。

「そういえば、宗教も人種も住んでいる国も違うのに、人は星に願い事をするのは不思議ですね。星ができるときも夢を叶えるときも同じように大きなエネルギ-が必要だから、星と夢には通じるものがあるのでしょうか。」

そのとき、貞松社長にある言葉が降ってきた。

「ダイヤモンドが星だったかもしれないなら、ダイヤモンドを星に戻せば世界中の人の願いを叶えてくれるかもしれないね。」

“ダイヤモンドを星に戻す”

ダイヤモンドの中に大小2つの星を浮かび上がらせたオリジナルカット“Wish upon a star”の着想を得た瞬間だった。

さらに4年の歳月を経て、高度なカット技術を駆使して誕生したオリジナルプレミアムカット“Wish upon a star”は、空前の売り上げを叩き出して世界中のジュエリー業界を驚かせた。

きらめくカットの中に映し出されるふたつの美しい星。小さな星は「今」の自分、大きな星は輝く「未来」の自分を愛する人たちの象徴。

ファンシーカットに見向きもしなかった他社も、二匹目のどじょうを狙い様々な模様を浮き上がらせたジュエリーを売り出してきたが、貞松社長は他社の動向には全く脅威を感じなかったという。

なぜなら“Wish upon a star”は、「ダイヤモンドをもう一度“星”にかえすことができたら、きっとみんなの願いを叶えてくれる」、そんな想いに共感する人たちが購入してくれているのだと、わかっていたからだ。

マーケットが資産価値やファッション価値だけを求める時代は終わっている。客が精神的な満足に価値を見出し始め、ミッションに共感し、購入という形で参加してくれるからこその成功だと確信していた。

実際、フェスタリアホールディングスの販売員の評価では、売り上げ以上に接客のプロセスが重視される。いかにして客と良い関係を築き、企業のミッションを共有してもらえるかを大切にしているのだ。

店頭で実際に体験した「ビジュ ド ファミーユ」の出来事をつづった社内向け冊子「Sコレクション」を18年間も毎年発行を続け、規模を広げても理念を見つめ直すことを忘れず、顧客の定着に役立てているという。

グローバルブランド確立のための2つのキーワード

「私たちは本当のグローバルブランドになりたい」と貞松社長は語る。

フェスタリアホールディングスが目指すのは、一部の人にしか手の届かない超高級宝飾店になることではなく、世界中の人々がもっと幸せになるために「ビジュ ド ファミーユ」を伝え、精神価値を代表するポジションを確立する企業となることだ。

今後は、急速に発展し精神的な豊かさも求め始めるであろうアジアを中心に、海外進出を進めていくという。また、デジタル化も重要な課題のひとつにあげる。

「イーコマースにはこだわりません。私たちの主戦場はやはりリアルな店舗です。写真やSNSを使って美しい宝石を見せるよりも、スタッフがお客様と接し、共感してもらうことで「ビジュ ド ファミーユ」が伝わっていくのです。AIやIoTといったものは活用していきたいですが、リアルとバーチャルと区別するのではなく、それらをより具体的に伝えるためのパートナーとして活用していきたいですね。」

類まれなる経験をし続けてきた貞松社長。今後も「共感」と「参加」をキーワードに、グローバルブランドへの道を駆け上がる。

貞松 隆弥(さだまつ・たかや)/1961年生まれ、長崎県出身。成城大学卒業後、1986年、家業である株式会社サダマツに入社する。2008年代表取締役社長に就任。2018年3月にフェスタリアホールディングス株式会社へ商号変更する。

※本ページ内の情報は2019年4月時点のものです。

フェスタリアホールディングス 貞松社長のインタビュー動画はこちらから

眼鏡から宝石業界へ参入して大逆転!業界の常識を覆した一手

フェスタリアホールディングス株式会社 代表取締役社長 貞松 隆弥