全国に300店舗以上の薬局を展開し、ジャスダック、東証二部への上場を経て、2015年に東証一部上場を果たしたファーマライズホールディングス株式会社。この業績をたった1代で築き上げたのが、同社代表取締役会長の大野利美知氏だ。1984年、医薬分業が今のように浸透していない時分から、特定の診療所の処方箋を専門に受け取る調剤薬局を開業。多くの医師から信頼を得て、多店舗展開に踏み切った。

しかし、かつては、親族の紹介で転職した医薬品の卸売企業で一心不乱に営業に励み、「自分はこの会社で一生を過ごす」とさえ考えていたという大野会長。そんな中、ある医師と出会い、再会したことが、大野会長を調剤薬局の開業に駆り立てた。

大野会長の運命を決めた“Turning Day”に迫る。

医薬品業界との出合い

1950年、大野会長は新潟県白根市(現:新潟市)で男三兄弟の次男として生まれた。活発な幼少期を過ごし、学生時代から「いずれ独立したい」という思いを胸に抱いていたという。

大学卒業後、埼玉県にある医薬品卸企業に就職。膨大な量の薬品やメーカー名を覚えるため、倉庫作業から仕事がスタートした。重い箱を何箱も抱えつつ、いかに効率よく倉庫内を整理できるか。同期社員たちと切磋琢磨する一方、先輩社員の“プロの顔”に感動したこともあった。

「段ボールの箱を開けた瞬間の香りで、どの薬品かすぐに言い当てるんです。1つ1つの薬品がどの棚の何番目にあるかまで、全て頭に入っている。プロ意識の高さに驚きました。」


その後、親戚の薦めで新潟にある、同じ医薬品の卸売を行う別の企業へ転職。入社後は営業として東京支店に転勤となった。

「ここが君のテリトリーだ。」

担当エリアは台東区と文京区の2地域だった。それにもかかわらず、当初の取引件数はたったの10件前後。担当者は大野会長のみだったが、同業他社は同じエリアに複数人の営業担当を配属させていた。それほど、当該エリアにおいては他社の取引実績の方が多かったのだ。この逆境が、大野会長の魂に火をつけた。

「絶対に他の会社を抜いてやる。そして、このエリアに1つ、営業所をつくるんだ。」

大野会長の戦いが始まった。

医薬分業時代の到来を確信し、独立の道へ

街を歩いていて「診療所」や「クリニック」と名の付く建物にはとにかく飛び込んだ。先輩から渡された1箱分の名刺はどんどんなくなっていった。もちろん、最初は門前払いで話さえ聞いてもらえない。だが、名刺がなくまるまで通い詰めたころには、「会ってみよう」と言ってくれる医師が現れるようになった。

そんな中で、ある1人の医師と出会う。商談のため、診療所の入り口から入った大野会長を、医師が一喝した。

「表は患者さんが入るところです。あなたは裏から入ってください。」

大野会長は言われた通り、裏口で靴を履いたまま、医師が診療を終え、休憩時間になるのを待った。この医師が、後に、大野会長を独立へと導くきっかけをつくる人物になろうとは、当時はまだ知る由もない。

しばらくすると、同業他社の営業マンが同じく裏口から入ってきた。そして、当たり前のように靴を脱ぎ、スタッフ用の部屋がある2階へさっさと上がっていったのだ。大野会長は、自分とその営業マンとの間にある、医師との信頼関係の違いをまざまざと見せつけられた気がした。

「よし。俺も2階に上がれるようになってやる。」

そしてその日から1日2回、診療所を訪問し続けた。しばらくすると、医師から「今日は2階で待っていなさい」と言われた。その頃には、同業他社の営業マンが訪れる頻度は減っていた。そこで、他社が担っていた卸の分も、全て大野会長が引き受けることとなったのだ。

「この調子でいけば、絶対にこのエリアに営業所がつくれる。あと少しだ。」

当時の夢は営業所の設立だった。学生時代に抱いていた「独立」への憧れが脳裏に過ることはなかった。

薬の勉強会が開催されるという話を聞けば必ず駆け付け、勉強会後には質問をした。そんな大野会長の熱心な姿は医師たちの印象に残った。


そして世の中の情勢は、医薬分業へと動いていく。

ある時、取引先の医師から声をかけられた。

「医薬分業の勉強会をしたい。大野君、事務局になってくれないか。」

若手の医師たちが10人ほど集まる勉強会で、大野会長は資料の配布やお茶出しなどを手伝いつつ、彼らの熱い議論に耳を傾けた。話を聞けば聞くほど、医薬分業が進むことは間違いないと思えた。

「医薬分業の時代は絶対に来る。」

そう確信が持てた瞬間、胸に去来したのはかつての夢である「独立」の2文字だった。心の底に眠っていた独立への想いが、むくむくと湧き上がってきたのだ。

その時、知人からとある企業を継がないかという話が舞い込んできた。願ってもない機会だ。当初は薬局運営で独立をしたいと考えていたが、まずは別の事業でも、医薬品に関わる分野で独立することが先決だった。当時、アジアでは日本の薬の需要が高まっていた。正規の手続きを踏み、薬を輸出できれば、大きなビジネスチャンスになる。大野会長は運命に身をゆだねるようにして、一生を過ごすとさえ考えていた前職の企業を退社。紹介を受けた企業を引き継ぐ形で、ファーマライズホールディングスの前身会社である株式会社東京物産を設立し、代表取締役社長に就任した。

だが、そこには厳しい現実が待っていた。蓋を開けてみれば、かなりの経営難に陥っていたのだ。それでも引き受けた責任を全うしなければと、大野会長は経営者として新たな事業を始める準備に奔走した。

運命を変えた、ある医師からの提案 ~Turning Day~

前職の医薬品卸売を行う企業を退社してしばらくした後、営業時代に懇意にしていた医師からビルの竣工式への招待状が届いた。かつて大野会長が「俺も2階に上がってやる」と、1日2回通った、あの診療所の医師からだ。

竣工式では、久々に懐かしい顔ぶれの医師たちに会うことができた。何人もの医師たちが、大野会長を見つけては、「元気か?」「今、何をしているんだ?」と声をかけてきた。薬の輸出に関しては、まだ構想段階で具体的な事業は始めていなかった。用意していた名刺を渡しながら答えると、ある医師がこう言った。

「そうか。君、薬局をやってみないか?確か以前、興味があると言っていたよね。とにかくここで話すのはなんだから、うちに来なさい。」

その医師は早くから医薬分業に取り組んでおり、かつて勉強会でも大野会長と語り合った経緯がある。その時、ふと大野会長が漏らした独立に対する想いを、しっかりと覚えていてくれたのだ。

後日、再度連絡を受けて、大野会長は医師のもとにいった。

「今、うちが処方箋を出している薬局の親会社が倒産してしまって、薬局が機能していないんだ。患者さんがとても困っている。近くに良い物件があるので紹介するから、そこで薬局を開いてみてはくれないか。」

「わかりました。」

懇意にしていた医師からの頼みならばと、その薬局を買い取ることになった。薬の輸出は白紙に戻し、東京物産は調剤薬局の運営に舵を切り直し、事業を開始。ファーマライズホールディングスの歴史が幕を開けた瞬間だった。


ビルの竣工式に呼んでくれた医師の診療所が近かったので、挨拶にいくと「それなら、私の新しいビルの3階が空いてるから、そこでも調剤薬局を開いてもらおうかしら」という話になり、2号店を開局。その後も大野会長が主催した勉強会に参加した医師たちが、「うちも医薬分業にしたいから、頼むよ」と、次々と調剤薬局の開局を申し入れたのだった。

その根底には、大野会長に対する絶対的な「信頼」があった。

医薬分業の場合、医師の目の届かないところで薬が処方される。今では当たり前の光景だが、当時はまだ「きちんと処方箋通りに薬を出すのだろうか」という不安もあり、医薬分業に踏み出せない医師も多かったという。そのため、当時は1つの診療所に対して1つの薬局という構造が基本であり、処方箋を出す薬局を運営する人物と、医師との信頼関係が必要不可欠だった。その点、大野会長は医薬品卸売の営業時代に築き上げた医師との絆がある。会長の人となりを知っているからこそ、医師たちは「大野会長が運営する薬局ならば、医薬分業をしよう」と決意することができたのだ。

既知の間柄の医師以外には、大野会長自ら飛び込み営業をかけ、通い続けることで信頼を得ていった。それまで院内処方を行っていた医師に医薬分業に踏み切ってもらうまでには長い年月を要した。中には、7年以上も通って、やっと分業を承知してくれた医師もいた。

一大調剤薬局グループを創り上げた創業者の信念

現在、ファーマライズホールディングスは患者1人1人に対して付加価値の高いコミュニケーションを提供し、「かかりつけ薬剤師」の理想形を追求している。そこには、竣工式に呼んでくれた医師と過ごした日々が大きく影響しているという。

調剤薬局の2号店として開局した後、大野会長は診療後に必ず医師と意見交換を行い、患者の薬の服用状況を共有した。毎日の話し合いの中からは、様々なアイデアが生まれた。その1つが、薬の説明書だ。現在では薬と一緒に渡されることが多いが、当時はまだ珍しい試みだった。

患者の健康を第一に考え、納得してきちんと薬を服用してもらう。医師と患者、双方と密にコミュニケーションを取ることの大切さは、同社に勤務する薬剤師にも伝え続けた。

社長となった後も、大野会長は患者に寄り添う薬局を目指し、勉強を続けた。

耳の不自由な患者にも対応できるよう手話を学んだり、外国人の患者ともコミュニケーションを取れるよう、医師から薬局業務に必要な英語を教えてもらったりもした。店頭では患者と会話を交わし、親身になって健康を気遣った。

こうして、地域医療を支える存在として、大野会長が率いる調剤薬局は、徐々に数を増やしていったのだった。

現在、300店舗以上を展開する一大調剤薬局グループとして、名を馳せることとなったファーマライズホールディングス。2016年に専務取締役だった岩﨑氏に社長を譲り、会長に就任した大野会長だが、調剤薬局にかける創業時からの熱い想いは、これからも受け継がれていくに違いない。

大野 利美知(おおの・としみち)/1950年4月16日生まれ。新潟県出身。1971年、医薬品の卸売事業を展開する株式会社マルタケに入社。1984年、株式会社東京物産(現:ファーマライズホールディングス株式会社)設立と同時に代表取締役社長就任。1997年、旧有限会社みなみ薬局を買収し、代表取締役社長に就任。2000年、旧北陸ファーマシューティカルサービス株式会社(現:東海ファーマライズ株式会社)設立と同時に取締役に就任。2002年、組織変更により、旧株式会社みなみ薬局(現:東海ファーマライズ株式会社)取締役就任。2007年、旧株式会社ふじい薬局(現:北海道ファーマライズ株式会社)を買収し、代表取締役就任。2009年、新設分割によるファーマライズ株式会社設立と同時に代表取締役に就任。2013年、旧ファーマライズプラス株式会社設立と同時に代表取締役就任。2015年、ファーマライズホールディングス株式会社代表取締役執行役員社長就任。同年、薬ヒグチ&ファーマライズ株式会社を買収し、代表取締役に就任(現任)、2016年、ファーマライズホールディングス株式会社代表取締役会長(CEO)に就任。

※本ページ内の情報は2018年5月時点のものです。

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