※本ページ内の情報は2024年1月時点のものです。

ロボットやAIなど技術の進化が急速な昨今、北陽電機株式会社は測域センサをはじめ「光」を媒体とした技術で社会を豊かにし続けている。

今や唯一無二の技術力で、売り上げが100億円を超える企業となった同社だが、尾崎仁志氏が社長に就任した当時は不況の煽りを受けて苦しい時期が続いていたそうだ。

「社長に就任後、最初にした仕事は社員のリストラだった」と話す尾崎氏に、再起に向けて実施した取り組みと今後の展望を聞いた。

真っ暗闇で先が見えないどん底のタイミングで社長に就任

――社長を継がれるまでの経歴について教えてください。

尾崎仁志:
社長を継ぐ前に、大崎電気工業株式会社で6年間の修業をしました。ここでは、工場の現場仕事や経理、営業など、いろいろな経験ができました。その後、30歳のときに北陽電機へ入社し、営業や品質保証の部署を経て、37歳で社長に就任しました。

――社長に就任されたとき、貴社はどのような経営状態だったのでしょうか。

尾崎仁志:
あの頃はどの業界も儲からず、本当に真っ暗な時代でした。創業者の祖父、父、そして1年間だけ社長をしてくれた元専務の方から私へと社長職が引き継がれたのですが、「あまりにも業績が悪いから今ならきれいな形で清算出来る」と言われるほどでした。

バブル崩壊や就職氷河期などとにかく暗いニュースが続く不況の時代で、売り上げも大きく落ちていた頃。会社がどん底の状態のときに社長に就任して、最初に始めたのが社員をリストラするという仕事でした。

経営状態が悪化しているときでも技術への投資はやめなかった

――かなり大変なタイミングで社長に就任されたのですね。

尾崎仁志:
社員たちの給料をカットしなければならないなど、本当に大変な時期でした。ただ、会社がどんなに悪い状況でも、社員全員で危機感を共有し一致団結でき、みんなでどうにか頑張れた側面もあります。

また、リストラはしたものの、製品を開発するための投資は続けていて、あのときの投資があったからこそ今の弊社があるとも思っています。技術部隊への投資を続けたから、その後10年ほどかけて売り上げを徐々に回復させられました。

――会社の経営状態が上手くいっていないときでも技術への投資をやめず、着実に売り上げを戻したのは尾崎社長の経営手腕だと思います。

尾崎仁志:
私に天性の経営手腕があったのではなく、周りの人に支えられてここまでやってこられました。技術に投資をできたのも、人との関わりがあったからです。

たとえば弊社の測域センサは、「PB8」という製品から始まっています。当時、ロボットの展示会にこの製品を展示したところ、大学の先生に認められて、それから産官学連携の共同研究が始まりました。

こういった体験も人との出会いがあってこそですし、人との出会いをつないでくれたのは弊社の技術や製品だと思っています。

78年続けた「光」の技術で世の中に貢献するために

――貴社は今後、より積極的に海外展開を進めていきたいとうかがいました。

尾崎仁志:
私が社長に就任した当時から世界中に代理店はありましたが、これからはより一層世界での認知度を高めていきたいです。日本の小さくて軽いロボットを好むお客様はヨーロッパやアメリカにもいるので、まずはそういった人たちに弊社の商品を知ってもらうところからスタートする必要があります。

――海外展開以外にも、今後注力していきたいことがあれば教えてください。

尾崎仁志:
弊社は78年にわたり光を媒体にした製品を展開しているので、光以外の媒体にも目を向けていこうと今活動しているところです。

とはいえ、長年にわたり続けてきた「光の技術」というコアコンセプトから外れることはしたくありません。ですので、光の技術で世の中に貢献できるものは何なのか、これからもリサーチを続けていく必要があります。

弊社の主軸製品は光データ伝送装置や測域センサなどですが、次にどういった製品を生み出していくのか。それが今後の課題ですし楽しみでもあります。

編集後記

どん底にある会社を任される形で社長に就任した尾崎氏。取材中、「私は、社員に『北陽電機の社長になりたい』と思ってもらえるような会社にしたい」と今後の目標を語った。

光の技術で社会を豊かにした北陽電機株式会社が、革新的な製品を生み出して、創業100年目を迎えるのが楽しみだ。

尾崎仁志(おざき・ひとし)/1959年10月5日大阪府生まれ、追手門学院大学卒。1983年、大崎電気工業株式会社に入社し、6年間の修業期間を経て、1989年に北陽電機株式会社入社。営業本部、九州、名古屋、北陸営業所及び品質保証部を経て、1997年に同社代表取締役社長に就任。一般社団法人日本電気制御機器工業会で理事としても活躍中。