現在、さまざまな企業や自治体でIT導入が進んでおり、それをサポートする企業が数多く存在する。
株式会社オプティマは組織のITソリューションを提供している企業だ。その二代目代表、森田宏樹氏は異色の経歴を持っている。
会社を継ぐにあたり、同社または同業他社で経験を積むのが一般的だが、森田氏はそういった経歴なしに入社から数年で同社の代表に就任した。
同業種未経験での入社から、どんな苦難を乗り越え、会社を成長させてきたのだろうか。
さまざまな組織の業務を支えるシステムをつくる企業
ーーまず、会社のご紹介からお願いします。
森田宏樹:
弊社は1972年創業の中堅システム開発企業です。事業領域としては金融(銀行)系システム、公共(自治体)系システムなどの大規模システムの受託開発、IT基盤構築、自社ソリューション~『WMS(倉庫管理システム)』、『食肉加工業者様向け在庫管理システム』、『株主総会支援システム』、『共済組合様向け会員管理システム』、『信用金庫様向け在庫管理システム』等~の開発・販売・運用保守)ビジネスを全国に展開しております。
指揮者を志していた入社前までの生活
ーー社長のご経歴について教えてください。指揮者を目指されていたところから、家業を継ぐことになったのはどういった経緯からですか?
森田宏樹:
若い頃、自分としてはその時々を一生懸命に取り組んでいたのですが、客観的に見ると、「迷走して大学を三つも行ったバカ息子」というラベリングになりますね(笑)。
1校目の慶應大学では、入学直前に兄を亡くしたこともあり、勉学に励むというよりは『色々な事にチャレンジし様々な人たちと交流する』ことに重点を置いてしまい、大学内外2つのオーケストラ、テニスサークル、テニスクラブのアルバイトコーチ、家庭教師、スキー、パチンコ、麻雀……と勉強以外の事に明け暮れる毎日でした。卒業が近づいてきた頃に、ふと「このまま何となく就職して親の会社を継ぐということで自分は良いのだろうか……」と。「遅すぎだろ!」と突っ込まれるような決断をし、内定をいただいていた企業様にお詫びをして次の年の音大受験を目指しました。
2校目の桐朋学園大学は残念ながら指揮科には合格できず、何とかヴァイオリン専攻で入れていただき、指揮は副科としてレッスンを受けました。何とか入れていただいたと書いた通り、幼少の頃から英才教育を受けた人たちが集まる学校ですので、にわか作りで潜り込んだ私などが技術面で太刀打ちできるはずもなく、プロ(匠)の厳しい世界に衝撃を受けました。
卒業後、本格的に指揮の勉強をするため、知り合いの知り合いをたどってミュンヘン国立音大の聴講生としてドイツに渡ることとなりました。しかし現地へ行くと、面倒を見てくれるはずの主任教授が重病で自宅から出られない状況であったため私は放置状態となり、この時点で新たな学校を探さざるを得ず、受験に備えアパートに籠ってピアノとオペラの弾き歌いを黙々と練習する日々となりました。ドイツの音大15校から募集要項(ドイツ語)を取り寄せ、受験申請をして招待状が来た中から4校を受験し、何とかブレーメン国立音大に拾ってもらい、留学を継続できることとなりました。
しかしまたしても。学校に入れてくれはしましたが、先生であるマーティン・フィッシャー・ディースカウ氏は現役の指揮者として世界各地を回っていたため、ほとんど学校へいらっしゃらなかったので、ここでも放置状態になりかけました。ただ、コレペティトアー(オペラ伴奏)の先生が大変良くしてくださり、指揮を教えてくれたり、ハンブルグ歌劇場の練習を見学する許可をくださったりしたので、ようやく音楽留学生らしい生活を始めることができました。
担当教授がそのような状況でしたので、学校でオーケストラを指揮させてもらえる機会も無く、自分で世界各地のセミナーやコンクールを調べ、イタリア、オーストリア、スイス、アメリカ、エジプト、スペイン、ロシアなどにバックパックを担ぎ安ホテルに滞在してオーケストラを指揮できる機会を確保しました。
卒業をするタイミングで先生が音楽監督を務めていたカナダのKitchener-Waterloo Symphony Orchestraの演奏会の指揮者に推薦してくださいました。演奏曲目も決まりコンサートの半年前にはKWオーケストラのHPでも発表されました。ただ、やはりここでも上手く事が進まない……。
コンサート2ヶ月前に突然先生から電話がかかってきて「辞退してほしい」と言われました。理由は先生が企画したヨーロッパツアーについてオーケストラから反対を受け訴訟問題に発展しかけているとのことでした。私は先生に対し「自分にとって指揮者としてのキャリアをスタートできるかどうかのターニングポイントなので、できるならやらせていただきたい」と訴えました。オーケストラ側も「コンサートは君との契約だからこのまま登壇しても良い」と言われましたが、やはり義理を欠くわけには行かず泣く泣く辞退しました。
このすぐ後に日本へ一時帰国した際に、当時のオプティマの番頭的な方から「音楽は断念してオプティマに入ってはどうか?」とお誘いをいただきました。既に35歳という年齢でコンクール受賞歴も無く、神様からの救いの手だと思ったカナダデビューも手のひらからすり抜けて行ってしまったことを考えると、「自分に追い風は吹いていない。一旦負けを認めなければならない」との思いになりました。
また、20代の頃は微塵も考えませんでしたが、30代半ばとなり「家業を継ぐ」、「会社が300人の従業員とその家族の皆さんの生活を背負っている」といった社会的責任や企業経営のやりがいのようなものを考えることができるようになっておりましたので、年齢的には非常に遅いスタートではありましたが、思い切って入れていただく決断に至りました。
何もわからない状況でIT企業に入社した苦労
ーーITのことは全くわからない中で入社をされて、いろいろご苦労があったと思いますがいかがでしょうか。
森田宏樹:
ITの知識はもちろん、業界の知識もなく会社の仕組みも分からない状態で飛び込んだので、しばらくはオフィスの端でIT、財務、人事・労務などの勉強を一生懸命にやりました。
また、様々な社内会議に参加し、夜はお客様や社員の皆さんと食事をさせていただき積極的に自社の事とお客様のことを勉強しました。全体的な流れが徐々に把握できるようになった入社3年後の2007年に代表になりました。
社長として取り組んできた信頼関係の構築
ーー社長に就任なさったのが2007年ですが、そこから今に至るまで取り組んでこられたことを教えてください。
森田宏樹:
会社に入ってすぐに感じたことは、「会社と社員の信頼関係が薄い」ということでした。そこをどう改善し構築していくかが一番重要だと思いました。
ITについては役員や社員の皆さんから教えてもらいながら勉強してキャッチアップしてはいましたが、とはいえITの面で会社を強力に引っ張ることは難しかったので、まずは「どのようにして信頼を得るか」ということを最も意識しました。
社員の皆さんが「どんなボンボンが来たのかお手並み拝見」とばかりに私の事を見ていらしたので非常に緊張していました(笑)。
拡大の背景と本業回帰
ーー2013年ぐらいから一気に売上が拡大回復をしていった背景や当時の様子を教えてください。
森田宏樹:
代表に就任した2年目(2008年)にリーマンショックが、2011年には東日本大震災が続き、会社としてはかなり厳しい状態となりました。
そこから不採算事業を整理したり、実力以上にボリュームを追ってしまっていた事業を縮小したりして本業の強みに注力する方へ舵を切り直しました。
そうして会社と社員の信頼関係をゆっくり構築しなおし、社員の皆さんと一丸になって改革を推進したことで成長路線に乗ることができました。
森田社長の人材論
ーー人材戦略について伺います。人材については「本当に能力の高い人物を集めてくる」か「社内にまずは呼び込んで教育をしていく」という2つの考え方があると思いますが、貴社の場合はいかがでしょうか?
森田宏樹:
両面ですね。キャリアで優秀な人材をバンバン採用するということは残念ながら難しい状況です。
ただ、弊社には「外から来た方のキャリアを尊重し仲良くやっていける文化」があります。ベクトルが一緒であれば、互いに成長していける環境が作れていると思ってます。
新人についても育成環境が整っているので、両面から人材面での強化を図っていきたいところですね。
ーー求める人物像を教えてください。
森田宏樹:
「自律」できることですね。
自らを律して努力することができれば、技術もビジネススキルも自ずと後からついてくるものだと思っています。我々普通の人間にとっては非常に重要だと思います。逆にそれができない人は環境を用意しても一段上の成長ができないと感じます。
会社が一方的に社員に期待するのではなく、自律が実現できるような環境を全力で用意し、その環境の中で本人にも努力をしてもらうことが良い関係性を作ることに繋がると信じています。
企業経営者として伝えたいこと
ーー今回の記事で、読者の方に「これは伝えたい」と思うことはございますか?
森田宏樹:
企業経営者と指揮者の類似性について2点あります。
1点目はピーター・ドラッカーはじめ多くのビジネス書でも語られている、『組織のマネジメント』についてです。
指揮者の場合は偉大な作曲家が書いたシナリオが用意されたところからスタートするという面は大きく異なるところではありますが、その与えられた設計図からどのような解釈・ビジョンで曲を作っていく(会社を動かしていく)のかをオーケストラ奏者(従業員や取引先)の皆さんに提示し、実行していただかなくてはなりません。
また、どちらも自分がプレーヤーになれない(『社長であれば(基本的に)稼げない』、『指揮者は自分で音を出せない』)立ち位置で、組織内のプロフェッショナルやサポートスタッフに最高のパフォーマンスを出していただくためにマネジメントしなくてはなりません。
指揮者と演奏家、企業経営者と従業員との関係性は微妙に違うところはありますが、どちらにしても『独りよがり』であれば良い関係性は作ることができず、組織としての成果(演奏)はクオリティの高いものにはならないでしょう。
二点目は、指揮者になれませんでしたが、敷かれたレールを走るのではなく自分で試行錯誤して意思決定を行い、その結果が自分にはね返ってくるという過程を繰り返したことは私にとって大変貴重な訓練となったと思います。
『経営者のなり方』、『指揮者のなり方』や『こうやったら経営は成功する』というものが世の中に“あるようで無い”ので、常に自分で考えて必要なものを探し出す努力を継続しなくてはなりません。
昨今は特に短期間・最短距離で成果(正答)を求める風潮が個人でも社会でもありますが、一方で泥臭い強さといったものが身に付きづらいという事は懸念に感じております。
編集後記
かつて指揮者を目指して海外留学し、その後に十分な知識・経験もないままIT企業に入社して二代目社長になった森田氏。
企業経営者として必要なノウハウやアクションを模索しながら、数々の苦労を乗り越えて今があるのだろう。
「社会インフラを担う」という使命を、かつて指揮者を目指して修行してきた経験を活かした斬新な手法で実現していく姿勢に注目したい。
森田宏樹(もりた・ひろき)/1968年川崎市生まれ。国学院久我山高校卒業(3年時に1年間米国イリノイ州へ留学)。1993年慶応大学法学部政治学科卒業。2004年3月株式会社オプティマ入社。2007年代表取締役社長就任。6歳からバイオリンをはじめ、高校1年生からジュニア・フィルハーモニック・オーケストラで、大学では並行して慶應義塾ワグネルソサイエティ・オーケストラにて活動。1995年に桐朋学園大学演奏学科バイオリン専攻入学。2000年~2001年ミュンヘン国立音楽大学指揮科聴講生。2001年ブレーメン国立音楽大学指揮科入学。2004年3月同校卒業。2013年第2回Black Sea Condaucting Competitionにおいて第2位受賞。現在、東京音楽大学社会人指揮研修生として勉強を続けている。