新潟県魚沼市の人口は、1955年をピークに減少の一途をたどる。全国的な人口減少に加え、新潟市や長岡市、東京都などの都市部への流入が主な原因である。一方で、同市の外国人人口の推移を見ると、2015年から少しずつ増えているのが現状だ。
その一助を担っているのが、株式会社カイセ工業である。同社は、外国人技能実習制度を利用して、30名ほどのタイやベトナムからの実習生を受け入れている。魚沼にある同社の新潟工場では、実に4人に1人が外国籍の人材だ。カイセ工業の代表取締役社長、貝瀬龍馬氏に、日本や海外で多国籍な人材、顧客と事業を行うにあたって、その難しさや従業員に対する思いをうかがった。
入社したものの工場には仕事がなく、仕事を得るために行ったこと
ーーカイセ工業に入社するまでの経緯と、入社してから大変だったことを教えてください。
貝瀬龍馬:
高校時代は一般科目が国語以外ほぼ赤点ギリギリでしたので、国語と比較的自信のあった絵で入れる東京造形に入学をしました。在学中は、本当に何も考えず趣味である格闘技やバイトをしているような学生でした。
大学卒業後も、漫然とバイトと格闘技を続けていました。何の目標もないフリーターとして半年ほど過ごし、お金が溜まったら海外に行く、というような生活をしていました。
そんなとき、現会長である母から「カイセで働け」と声をかけられました。大好きだった創業者の祖父がその1年前に寝たきりになっていたこともあり、「いつかはちゃんと生活をしなくてはならない」という想いはありましたので、直ぐ気持ちにギアを入れ、入社いたしました。
駒不足な状況もあったとは思いますが、放蕩息子に声をかけてくれた母には感謝しております。入社に後悔はありませんでしたが、4期連続赤字の初年度に入社をしたので、入社直後からかなり大変でした。
まず、入社したその日に埼玉工場に行くことになったのですが、当時の埼玉工場は、メイン顧客の大きな仕事を逸注してしまったため、仕事がなく先細っていくばかりという状況でした。当初は数十人もいた従業員も、私が配属された時点で6〜7人となり、雰囲気も決して良くはありませんでした。皆さん人間性は本当に良い方々でしたが、皆が未来に不安を抱えている事が、若い自分にもひしひしと伝わりました。
結局、業績が悪かったこともあり埼玉工場で5〜6ヶ月、静岡工場で4ヶ月、新潟工場を2ヶ月経験した後、入社1年後にはタイ工場へ赴任することとなりました。
その後、埼玉工場も静岡工場も閉鎖になってしまいますが、そこで働いてくださった皆様が将来に不安がある中でも、私に対し目をかけてくれ優しくしてくださった事は今でも覚えています。努力が報われず、各工場が消滅してしまった事は、自分の仕事に対する考え方を形成する大きな事象でした。
なぜ閉鎖せざるを得なかったか考えることにより、工場営業の大切さや工場内の数値を考える事の大切さ。従業員さん達に対して悲しい思いをさせたくないという気持ちを強く持ちました。
ーー入社してから印象に残った出来事を教えてください。
貝瀬龍馬:
大きく2つあります。
まず1つ目は、26歳のときに初めて大きな仕事をいただいたことです。2002年に赴任したタイ工場は、当時立ち上げ1年目の工場で、従業員数も数名程度でした。創業者である祖父の「海外に工場を出したいなら、顧客に付いて出すのではなく、全てゼロからスタートすること」という遺言の様な厳命もあり、当時は仕事も少なく日本も含め4期連続赤字を出して非常に苦戦をしていました。
業績が悪いので良い給与が出せず、いい人材が来ない。来ても直ぐにやめてしまう。そんな状況でした。そのような中で、1つのお客様が何故か弊社を気に入ってくださり、当時20代の若造だった私に、少しずつ仕事の話をしてくださるようになりました。
その会社にはかっこよく仕事をされる方や、そもそも人間的にも魅力的な方が多くいらっしゃいました。私自身「この方々に認めていただく仕事がしたい!」と思い活動をすることで、徐々に仕事を増やしていきました。
そして、お取引開始から三年後に、お客様の内製設備を10数台も弊社に移管し、製造をお任せいただくような、大きな受注をいただくことができたのです。
このときは嬉しさとプレッシャーで、寝ずに移管作業を行いました。移管後も御迷惑をおかけする場面もありましたが、最終的には上手く行き、仕事をする楽しさを教えていただいた初めての大型受注でした。そのお客様は今では弊社のメインカスタマーの一社になっているだけでなく、世界10拠点で弊社のパイプを使って頂いており、本当に感謝しております。
2つ目は、2011年にタイのアユタヤで起きた水害で、工場地帯が水没したことです。この時はアジア全体のサプライチェーンが混乱を極めていました。弊社もその対応に追われ、2カ月ほど工場に寝泊まりをするなど、緊急対応が必要な状況でした。
タイ全体の状況が回復したのは2年後くらいでしたが、少し落ち着いてきたタイミングで、お客様に「本当に良くやってくれて、ありがとう」と仰っていただいたのは、涙が出るほど嬉しかったです。
未だそのお客様の一部の方々には「その節はありがとうございました」と、十数年前の話にも関わらず仰っていただき、これからも長く良いお付き合いをさせていただければと思っています。
設備を整え、金型を自社で内製することで、どんな要望にも応えられる体制を構築
ーー貴社の強みと取り組み、また仕事をする上で大切にしていることをお聞かせください。
貝瀬龍馬:
弊社の強みは、パイプの塑性加工技術です。金属パイプの加工と販売を行っておりますが、金型を内製できることと、お客様の数と業種が多い事からパイプ形状のバリエーションが多く、それが塑性加工技術の向上に寄与しております。
パイプ加工製品は切断、曲げ、端末加工等々、多様な塑性加工要素の組み合わせとなりますので、その金型や治工具を全て内製することが可能です。要所要所にカイセ独自の味付けを出来ることは、大きな強みだと感じております。金型の内製は、海外工場でも取り組んでいる弊社の一つの大きな武器です。
また、仕事をする上で一番大切にしている事は、社訓にもあります「感謝、前進、信頼」の気持ちです。
その中でも特に「感謝」は大切なものだと感じており、お客様や取引先様、共に働く皆さんへの感謝の気持ちが強ければ、必然的に会社の事業計画は良いモノになりますし、実行に対する責任感は強くなるものと考えております。
社員が働き続けたいと思う気持ちがある限り、何歳になっても働き続けられる
ーー今後の展望を聞かせてください。
貝瀬龍馬:
目標値については内緒ですが、もう少しだけ大きな会社にしたいと思っています。
現在の生産拠点は、「新潟」「タイ」「ベトナム国ホーチミン」の3ヶ所ですが、各拠点が現地でパイプを販売することはもちろん、立地を含めた各工場の特性を分析し、最適な生産拠点をお客様に提示いたします。
また、塑性加工技術を極める事が一番大切で一番の売りですが、カメラ、センサー、タブレット、AI、モニター等、最近安価に手に入りやすくなったアイテムを利用して、品質トラブルの抑制、生産向上、ノウハウの伝達を考えています。
有難い事に社内でプログラミングを行い作ってくれたシステムもあり、塑性加工にそれらを組み合わせてお客様の満足できる製品をつくれれば最高です。
そして、結局最後は人なので、従業員の皆さんに物心両面でこの会社に勤めてよかったと感じてもらいたいと思っています。
また弊社では、定年はありますが、再雇用の年限はなく、現在も、70代後半で働いている方もおられます。本人の都合で週1回、何時間勤務でも良く、ご本人が働きたいと思える限りは、働いて良い環境になっています。皆さんが少しでも長く働ける会社にしたいです。
雇用しても長く続かないとしたら、それは会社のせいだと思って皆さんが安心して働ける職場をつくれるよう、志半ばですが、頑張って行きたいです。
ーー最後に、未来に向けて社長の思いをお聞かせください。
貝瀬龍馬:
祖父に作っていただいた社訓である「感謝、信頼、前進」を信じて、お客様と地域の皆様に少しでもお役に立てる会社に成長していきたいと思います。
編集後記
入社当時から大変な経験をしてきたが、微塵も苦労を感じさせず、魚沼やタイ、ベトナムの従業員への思いを語っていた貝瀬社長。「お客様と従業員、どちらも人生の最上位に当たる大切なもの」と語る。これからも社長を筆頭に、全社一丸となって日本のみならず海外でもお客様のニーズに合ったパイプをつくっていくのだろう。お客様の笑顔と従業員の笑顔、どちらも真摯な思いで大切にする姿勢が印象的だった。
貝瀬龍馬/1979年、東京都生まれ。東京造形大学卒業。2001年、株式会社カイセ工業入社。2002年より同タイ法人へ出向。2013年〜2019年まで現地代表。2019年に帰国し、新潟工場主幹常務を務める。2023年より代表取締役社長に就任。