※本ページ内の情報は2025年5月時点のものです。

株式会社中島製作所は、トラックやバスといった産業用車両のホイールの切削や溶接加工を手がける会社だ。代表取締役の中島賢太氏は、その他に介護事業や農産物の販売事業、コンサルティング事業など、複数の会社を経営している。

社員に経営者として認めてもらうために行った組織改革や、業績の悪化を乗り越えたエピソードなどについて、中島社長にうかがった。

社員の不満を吸い上げ、同じ方向を向いて動ける組織へ

ーーまずは幼少期から家業に入るまでのご経歴をお聞かせください。

中島賢太:
小さい頃から後継ぎとして期待されていたので、家業を継ぐことは常に意識していましたね。4歳の頃には七夕の短冊に「お父さんの会社を継ぐ」と書いていたそうです。創業者である祖父の後を継ぎ会社を経営していた父は私にとって憧れの存在で、自分も父のようになりたいと思っていたのです。

中学や高校時代も、将来経営者になることを意識し、そのために自分は今何をすべきかを考えながら行動していました。大学卒業後は、修業のために家業と同規模のバネメーカーに就職。営業として、ひたすら営業電話をかけ、最初の30秒でいかに相手に興味を持ってもらえるかを工夫していましたね。

それから2年後に家業に入り、最初の1年は作業を覚え、製造工程の流れや品質管理を学び、その後は生産管理を担当しました。朝一番に出社し、進捗を見ながらその日の作業スケジュールを立てていました。昼間はホイールの加工や組み立て、夜はグループ会社の新規営業を行う、目まぐるしい日々でした。

ーー社長に就任したときの周囲の反応はどうでしたか。

中島賢太:
私は「社員100人の家族も含め、自分が全員を幸せにするんだ」という思いが強いあまり、一人で暴走している状態でした。社員からは「何も知らない若造が何を偉そうに言っているんだ」と思われ、まったく相手にされませんでしたね。

そのときに学んだのが、周りに認めてもらえなければ“自称”社長でしかないということです。私一人では何もできず、社員が同じ方向を向いていなければ、会社として機能しません。このことを自覚してからは、「社員が何を求めているのか」「どうしたら喜んでくれるのか」へ発想を切り変えましたね。

特に意識したのは、社員の意見を聞き、会社の問題を一つひとつ解消することです。その中で、「不平」と「不満」を区別することを心がけました。不平は「あの人の仕草が気に入らない」など、個人的な感情であり、改善が難しいものです。一方不満は、「チェックが終わったら声をかけてほしい」など、いくらでも改善できるものです。

そこで不満を吸い上げ改善することで、社員が満足できるよう心がけてきました。こうした小さな積み重ねの結果、社員から信頼を得られ、離職率の低下につながりました。

社員に会社の現状を包み隠さず伝え、不安を払拭

ーー改めて貴社の事業内容と強みについて教えてください。

中島賢太:
弊社は産業用車両用ホイールの切削や溶接を行っています。弊社の工場は、一部上場ホイールメーカーの敷地内にあります。こうした特殊な環境だからこそ、日本トップシェアのメーカーに信頼される点がメリットですね。

また、私たちは切削や溶接に特化している分、ホイールの製造工程に詳しいのも強みです。

ーーこれまで特に苦労したエピソードを教えていただけますか。

中島賢太:
2023年は外的要因で売上が48%減となり、ボーナスもほとんど出せない状況でした。ただ、社員を不安にさせないよう、毎月自社の現状と改善策を伝えるようにしていましたね。

2024年の年始には「今年は絶対に業績を改善させる」と願いを込め、だるまの片目を書き入れました。するとその年に業績が回復し、目標が叶ったため、忘年会でもう片方の目を書き入れました。社員たちと美味しいお酒を飲むことができ、一安心しました。

訪問介護事業や農作物の通販事業を立ち上げたきっかけ

ーー中島社長は家業以外にも複数の事業を運営されていますね。

中島賢太:
訪問介護事業を立ち上げたきっかけは、障害がある知人の家を訪れた際、はじめて訪問介護の仕事を知ったことでした。これを機に、訪問介護は社会に必要とされている重要な仕事だと気づいたのです。

世の中を積み木にたとえると、凸凹を補い合いながら成り立っているといえます。そこで私は助けを必要としている人たちのために、家業とは別に訪問介護事業を立ち上げました。

この介護事業は現在、農作物通販サイト「とれたぶんだけドットコム」の運営会社である株式会社ソアーに介護事業を移し、居宅介護支援事業なども展開しています。さらに、経営コンサルティングやWeb制作を行う株式会社ティティードの代表も務めています。

私が起業する際の基準は、儲かるよりも、人に喜ばれ、自分も楽しくなれるかということです。その上で、「半年間で1円も利益が出なければ即撤退」をルールにし、理想ばかりを追い求めず、ビジネスとして成立させることを意識しています。

会社を自分が成長する場所にしてほしい

ーー事業運営をする上で意識していることは何ですか。

中島賢太:
仕事は自分の人生を豊かにする手段のひとつでしかありません。1日8時間に加え、通勤時間も含めると、それ以上の時間を仕事に費やしています。結果として、人生の大半が仕事に占められているのです。そのため、私は会社を単にお金を稼ぐ場所ではなく、自分自身が成長する「大人の学校」にしたいと考えています。

そこで重視しているのが、社員のスキルを測る評価制度です。弊社ではどの部分を評価されたいか社員からアンケートを取り、評価項目を設定しています。自分がどこを目指せばいいのか、目標までどのくらい足りないのか可視化することで、各自が方向性を見失わずに行動できるようにしています。

さらに介護事業では、パートさんも対象とした表彰制度「さんしゃいんアワード」を設け、「縁の下の力持ち賞」など、それぞれに合った賞を授与し、手づくりの記念品を手渡しています。こうして社員を正しく評価することで、モチベーションアップにつながると思っています。

ーー採用についてお聞かせください。

中島賢太:
弊社では技能実習生を積極的に受け入れており、ベトナム、フィリピン、インドネシア出身の約30人が働いています。昨年はベトナムの理系大学と連携協定を結びました。今後も海外から優秀な人材を採用していく予定です。

また、現在検討しているのが、新規事業の企画案を基準にした採用です。人材派遣会社とタッグを組み、良い案があれば実際に事業として立ち上げ、提案してくれた学生さんを採用する方法を考えています。

ーー最後に経営者としての信念を教えていただけますか。

中島賢太:
仮面ライダーの必殺技のように、誰もが生まれ持つ唯一無二の能力を備えていると私は信じています。私の能力は、思いついたことを具現化し、そこに人を巻き込む力です。この才能を活用して1人でも多くの人を助け、しあわせな社会にしていきたいですね。

編集後記

社員の方々が「うちの会社は私たちのことを大切にしてくれる」と周囲に話し、「私もそんな会社で働きたい」と、就職希望者が集まってくるのだそう。今回のインタビューからも、中島社長の社員を大切にする姿勢が強く伝わり、応募者が集まってくるのも納得できた。株式会社中島製作所はこれからも社員の団結力と技術力で、産業用車両の製造現場を支えていくことだろう。

中島賢太/1977年生まれ、東京都出身。2000年に中央学院大学商学部を卒業。同年、東洋発条工業株式会社に入社。その後2002年に株式会社中島製作所に入社。2011年株式会社ナック代表取締役に就任。2015年株式会社ソアー、2021年に株式会社ティティード、2022年に株式会社生産技術部を設立、それぞれの代表取締役も務める。2022年株式会社中島製作所代表取締役に就任。現在に至る。