※本ページ内の情報は2025年9月時点のものです。

食肉卸業界で目覚ましい成長を遂げる株式会社プレコフーズ。代表取締役社長である髙波幸夫氏のリーダーシップのもと、売上高1.5億円から30年間で300億円企業へと驚異的な飛躍を遂げた。その原動力は、独自の経営戦略と人を育てる企業文化にある。

「社長たちの協同体」を意味する社名に込められた思いや、戦略的な営業体制、そして利益を社員へ還元する企業姿勢は、次世代へのヒントに満ちている。髙波氏に、その経営哲学と成功の秘訣、そして未来への展望を伺った。

アメリカンドリームから家業継承へ

ーーアメリカへ渡った経緯をお聞かせください。

髙波幸夫:
日本の大学が自分には合わないと感じ、3ヶ月で通わなくなりました。当時はアメリカンドリームという言葉がもてはやされ、マクドナルドも日本に入ってきて、ビジネスはアメリカが一番進んでいると感じていたのです。

アメリカのビジネスを自分の目で見たいという一心で、8ヶ月働いて資金を貯め、親に告げたのは出発の3日前でした。父からは反対されましたが、アメリカへの強い憧れから日本を飛び出しました。

ーー渡米後、再び大学で学ぶことになったのはなぜですか?

髙波幸夫:
最初はレストランで働いていましたが、半年ほど経つと、これではそのレストランのことは分かっても、アメリカのビジネスは見えてこないと感じました。もっと深く学ぶ必要があると考え、カリフォルニア州のブルックスカレッジに入学することを決意したのです。

しかし、英語力も十分ではなく、働きながら学ぶ日々は困難を極めました。そこで、父に手紙を書き、「今度こそ大学を卒業するから、在学中だけ支援してほしい。卒業したら帰国して継ぐから」とその場しのぎでお願いしたのです。父は「仕方ないな」と言いながらも支援してくれ、そのおかげで1日3時間睡眠の猛勉強の末、無事卒業することができました。

ーー帰国後、家業の「鳥利商店」に入社した経緯と当時の心境を教えてください。

髙波幸夫:
大学卒業後はニューヨークで2年ほど暮らし、アメリカでキャリアを築こうと考えていました。そんなある日、父から「家業の経営が厳しい。帰ってきて力を貸してほしい」という手紙が届いたのです。大学進学時に「卒業したら家業を継ぐ」と約束したあの手紙のコピーも同封されていました。

正直、ファッションマーチャンダイジングを学んだ自分が、家業に戻ることには強い抵抗がありました。なぜなら、家業の仕事は幼少期から手伝っており、全て分かり切っていました。そして、当時は英語を話せて、アメリカの学校を卒業した人材も今より少なく、大手企業への就職も可能だったかもしれません。しかし、裕福ではない中、大学卒業まで支援してくれた父のことを思うと断ることもできず、帰国して弊社に入社しました。

「プレコフーズ」誕生と躍進の秘密

ーー社長就任と同時に社名を「プレコフーズ」に変更した理由と、その名前に込められた思いとは何ですか?

髙波幸夫:
父から「会社をやるから好きにしろ」と言われて、初めて嬉しさを感じましたね。社長就任後に、まず取り組んだことが社名の変更でした。当時の社名は「有限会社鳥利商店」で、これでは鶏肉専門の小さな商店というイメージから脱却できず、優秀な人材も集まらないと考えたのです。

新しい社名「プレコフーズ」の「プレコ」は、「プレジデンツ コオペレーション」の略で、「社長たちの協同体」を意味します。「プレコフーズ」という太い幹から枝葉が伸びて成長していくように、共に働き、共に頑張った仲間が社長となり、グループ企業として事業を成長させていく。そしていつか“社長会”を結成し、互いの成長を讃え、更なる発展を遂げていく。

人を育て、会社を育て、グループ全体が育つ。そんな大樹のような企業集団を作ることができたら、企業人として幸せだろうと考えました。

ーー小売から卸へ事業転換し、急成長を遂げましたが、その成功の要因は何だったのでしょうか?

髙波幸夫:
入社当時、家業は主に小売で、卸はわずか50軒ほどでした。しかし、スーパーやコンビニの台頭で小売の売上は激減し、家族経営では立ち行かない状況でした。そこで、社長就任を機に卸売業に一本化し、小売業は2年ほどで完全に撤退しました。

そこからは、まさに「営業力」です。当初は私一人で営業していましたが、それではスピードが上がりません。そこで、営業担当の数を増やし、組織化することで顧客数を拡大していったのです。現在では約3万5000軒のお客様と取引があり、東京の飲食店の約3軒に1軒は弊社のお客様です。この30年間で売上高は1.5億円から300億円へと、約200倍に成長しました。

ーー独自の「目標売上高算出式」や首都圏集中戦略など、貴社の強みについて詳しく教えてください。

髙波幸夫:
事業拡大には資金調達が不可欠ですが、当初は担保も信用もありませんでした。そこで、銀行に成長性を理解してもらうために独自の「目標売上高算出式」を考案したのです。これは7つ(現在は9つ)の指数を基に、ほぼ正確に未来の売上を予測できる数式で、誤差は5%未満です。

この算出式と経営計画書を提示することで、都市銀行からの融資を引き出すことに成功しました。この算出式があるからこそ、3年、5年先の正確な売上を予測し、センター新設のタイミング投資計画などが明確になり、持続的な成長が可能になったのです。

また、エリア戦略としては、全国展開ではなく首都圏に経営資源を集中させています。都内に複数のセンターを持つことで、新センター設立時も既存センターから顧客を移管でき、高い稼働率でスタートできる利点があります。そして、食肉だけではなく、青果、鮮魚、衛生と事業を多角化することで、効率的にマーケットシェアを拡大しています。

社員と築く100年企業への道

ーー社員への利益還元や成長機会の提供など、組織としての強みをお聞かせください。

髙波幸夫:
会社の成長は社員のおかげであり、その成果は積極的に社員へ還元しています。たとえば、3年前と昨年には3億円を社員に還元しました。これは、一人当たり20万円から60万円の所得向上に繋がりました。

この数年間で約15~20%の所得アップを実現しており、今後もさらなる還元を予定しています。給与を上げることは固定費増に繋がるため簡単なことではありませんが、社員の笑顔を創造するという企業理念の実現には不可欠です。

また、成果主義を導入しており、年齢や学歴に関わらず、実力次第で若くして部門長や取締役に昇進するチャンスがあります。実際に29歳で取締役になった社員や、新卒入社約10年で本社の管理部門長や執行役員になった社員もいます。

ーー今後の事業展望と、髙波社長の夢について教えてください。

髙波幸夫:
今後はM&Aも活用し、メーカーとしての機能を強化していきたいと考えています。直近ではデリカ事業を買収し、スーパーマーケットという新たな販路も獲得しました。自社で製造した商品を飲食店はもちろん、ホテルや高齢者福祉施設、大学食堂などへも展開し、シナジー効果を高めていきます。将来的には食肉加工の新工場も設立したいですね。

私自身の夢は、息子が3代目として事業を承継し、プレコフーズが100年企業として1000億円規模の企業集団へと成長する姿を見ること、そしてその礎を私が築いたと思えることです。今後は会社経営だけではなく、事業承継に向けても取り組んでまいりますが、結局仕事が好きなので、このグループをさらに大きく育てていくことが何よりの楽しみです。

ーーどのような人材と共に、プレコフーズの未来を築いていきたいとお考えですか?

髙波幸夫:
明るく前向きで、笑顔が素敵な人、そして積極性のある人ですね。プレコフーズは、自ら手を挙げて仕事や所得を勝ち取っていく風土のある会社です。成長意欲のある人は、当グループに非常に向いていると思います。

また、成功事例を共有し、誰もが成果を上げられるような仕組みづくりも行っています。学歴や経験は問いません。将来社長になりたい、大きな責任のある仕事に挑戦したいというバイタリティ溢れる方々と一緒に働きたいですね。

編集後記

会社を訪問して最初に驚いたのは、オフィスに入ると、社員の方々が立って声を揃えて挨拶をしてくれた。その瞬間、気持ちのよい空気が流れた。髙波社長が語った「社員の笑顔を創造する企業でありたい」という理念が、社員一人ひとりに根づいている、そんな実感を伴う体験だった。また、髙波社長の言葉からは、幾多の困難を乗り越えてきた経営者としての力強さと、社員そして事業への深い愛情が伝わってきた。「鶏肉屋の息子」がアメリカンドリームを追い、そして家業を大きく成長させた物語は、夢を追う若者に勇気と希望を与えるだろう。

髙波幸夫/1958年、東京都生まれ。日本の大学を3か月で中退後、渡米しカリフォルニア州のブルックスカレッジを卒業。1983年に帰国し、家業である有限会社鳥利商店(株式会社プレコフーズの前身)に入社。1994年、代表取締役社長に就任し、株式会社プレコフーズへ組織変更。小売業から卸売業へ事業転換。30年間で売上高を1.5億円から300億円へと成長させている。