
ダイヤル・サービス株式会社は、日本初の電話秘書サービス、そして世界初の利用者発信型のマンツーマン電話相談サービスとして1969年に創業した。以来、社会の課題に向き合いソーシャルビジネスの道を切り拓いてきた企業である。その原動力は、創業者である今野由梨氏の壮絶な原体験と揺るぎない信念にある。歴史・文化の色濃い海、山、川に囲まれた美しい街で、さまざまな生き物たちとともに育ってきた。それが9歳の時に空襲を経験し、家も学校も街もろとも一夜にしてすべてが灰になった。火の海の中で家族とはぐれ彼女自身も一度死に、そして生き返った奇跡の経験をした。「大人になったら、この出来事をアメリカに伝える」と誓った。彼女はやがて大学を卒業して、この国で経験した様々な男女差別の末、「女性が仕事をする会社」を自らつくると決意する。幾多の困難を乗り越え、89歳となった今もなお苦しむ人々に寄り添い続けるその情熱の源に迫る。
灰燼の中から生まれた誓い 起業家・今野由梨の原点
ーー今野社長のこれまでの歩みの原点についてお聞かせください。
今野由梨:
私は三重県桑名市のごく普通の家庭に生まれました。そして、9歳の時に経験した米軍の桑名空襲が私の人生すべてを変えたのです。美しかった故郷が一夜にして灰と化し、共に生きてきた多くの人々や動物の命が失われました。
その燃え盛る街を見つめながら、「大人になったら必ずアメリカへ行って、この夜のことを話す」と固く誓いました。その復讐心にも似た思いを胸に、猛勉強に励んだのです。
ーーその決意は、どのようにして実現へと向かったのでしょうか。
今野由梨:
当時の桑名は、女性が大学に行くなど考えられない時代でした。しかし、何としても東京の大学へ行きたいと父を説得し、津田塾大学一校だけに願書を出し、合格しました。大学時代は新聞部での活動に明け暮れ、メディアの世界に深く関わったのです。このままメディア業界に就職しようと、就職活動を始めましたが、思わぬ出来事に遭遇します。
私が面接で「何をしたいか」を話すと、「仕事は男がするものだ。お前は言われた通りニコニコ、ハイハイやればいい。お前にはそれができないだろう!」と、どの会社でも同じ言葉を投げかけられ、不採用になりました。その時、「わかった。それなら10年後必ず私が女性のための仕事、女性の能力、経験をフルに活かし、世のため人のために思い切り働ける会社をつくってやる」と決意しました。
過去との対峙 そして未来へ。ニューヨーク万博での再会
ーー起業を誓ってからの10年間は、どのように過ごされたのですか。
今野由梨:
就職できなかった私を見かねた産経新聞の編集長が、新聞社の仕事に誘ってくれました。ほどなくして、月刊誌で4頁の映画評論をはじめ、自由に書かせてくれました。その後、流行作家の三浦朱門・曽野綾子ご夫妻からお声がかかり毎日助手としても働かせていただきました。私が歌声喫茶「灯(ともしび)」でアルバイトしていたことがきっかけで、そこに集う若者群像に曽野先生が興味を持たれ、「ぜったい多数」という小説を執筆されました。歌声喫茶で働く女性が多くの若者と出会う物語で、新聞連載、単行本化、さらにはTBSによる連続テレビドラマ化、松竹による映画化へと展開されました。
それ以外にも、TBS「街の歌声」やNHK「カメラリポート」でレギュラーリポーターを務めたり、作家の渡辺淳一さんがデビューした初日から助手として仕事のお手伝いをしたりと、さまざまな活動をしました。もし就職していたら決して経験できなかったであろう出会いが、私の人生の財産になっています。
ーー会社を設立する上で、直接的なきっかけとなった出来事はありますか。
今野由梨:
1964年のニューヨーク万国博覧会に、日本館のコンパニオン兼広報委員として参加する機会を得ました。ある日、取材に訪れたアメリカのメディアの重鎮が、私が桑名の出身だと知るや否や、駆け寄ってきて泣きながらこう言ったのです。
「あの晩、あなたの町を空襲したのは自分だ」と。9歳の私が「この業火に見舞われたこの夜の、私の体験をアメリカ人に話して、戦争は絶対にしてはいけないと伝える」と誓った相手との、あまりにも偶然な再会でした。彼は私の使命を理解し、万博期間中その後の活動を力強く応援してくれるようになりました。
ーーその後の起業の経緯について、詳しくお聞かせください。
今野由梨:
1969年に6人の仲間とダイヤル・サービスを立ち上げました。日本で初めて24時間年中無休で対応をする、電話秘書サービスです。多忙なトップセールスマンの方々に「あなたの秘書を全部やってあげる」と提案したところ、これが大きな反響を呼び、事業は軌道に乗りました。その後、私たちの前例のない取り組みは、NHKをはじめさまざまなメディアで取り上げられるようになりました。
社会の叫びに耳を澄ませて
ーー事業が軌道に乗った後、何か転機となる出来事はありましたか。
今野由梨:
電話秘書サービスは順調に拡大を続けていました。しかし、当時の日本社会にはさまざまな問題が噴出していたのです。たとえば、高度経済成長のひずみの中で、孤独な子育てに悩んだ母親が我が子を置き去りにする「コインロッカーベイビー」が社会問題になるなど、悲しい事件が頻発していました。
連日報道される悲しい事件を前に、私は自分のビジネスの成功だけでなく、「命に寄り添う仕事がしたい」と強く思うようになりました。それが私の活動の、本当の意味での原点になったと感じています。
ーーその思いは、どのような事業へと結びついたのでしょうか。
今野由梨:
「赤ちゃん110番」は育児に悩むお母さんたちが、24時間365日いつでも専門家に電話で相談できる、日本初のサービスです。核家族化が進み地域社会とのつながりが薄れる中、お母さんたちは孤立しがちでした。夜泣きや授乳、突然の病気といった不安を、小児科医や助産師、保健師といった専門家が電話口で受け止め、支える。「お母さんのための駆け込み寺」をつくろうとしたのです。
しかし、どの企業にスポンサー協力をお願いしても「前例がない」と断られる日々が続きました。それでも諦めずに支援者を募ってサービスを開始すると、今度は全国から電話が殺到して回線が何度もパンクしたのです。社会から理解が得られなかったり、国から指導を受けたりする時もありました。それでも、創業メンバーと「絶対に負けない。笑顔でやろう」と誓い合い、どんな困難にも笑顔を忘れずに立ち向かいました。
89歳の情熱 国境を越えて未来へ

ーー今後の展望についてお聞かせいただけますか。
今野由梨:
私の基本的な使命は、全く変わりません。時代はこれからも音を立てて変化し続けるでしょう。その中で、さまざまな理由で苦しみ、泣き叫んでいる人々の声に耳を澄ませ、その命に寄り添う仕事は、今後も変わらず続けていきます。
これからは「国境なきお母さん」として、世界の平和のために活動したいです。そして人間だけでなく動物たちの命を救うためにも、活動の幅を広げていきたいと考えています。89歳になりましたが、この熱い思いがある限り、寝ている暇はありません。私の使命を成し遂げるため、これからも全力で走り続けます。
編集後記
9歳の少女が戦火の中で立てた誓いは、半世紀以上の時を経て、今なお彼女を突き動かす原動力となっている。理不尽な社会への反骨精神を「女性が働く会社」の設立へと転化させ、社会の歪みから生まれる悲鳴には「命に寄り添う事業」で応えてきた。その歩みは、困難を嘆くのではなく、自らの手で未来を切り拓くことの尊さを教えてくれる。89歳の瞳に宿る炎は、これからも多くの人々の道を照らし、希望を与え続けるに違いない。

今野由梨/1936年、三重県桑名市生まれ。1958年、津田塾大学卒業。就職試験を受けるもすべて受からず、10年後に会社を立ち上げることを目標に、さまざまなアルバイトに従事。1964年、NY万国博覧会のコンパニオン兼広報委員として活動。万博終了後、欧州を放浪して帰国。1969年5月1日、ダイヤル・サービス株式会社を設立。現在に至る。