服飾雑貨を含むアパレル業界は、コロナ禍前と比べ業績が回復傾向にあるものの、依然として消費者の低価格志向や余剰在庫の問題などの課題も残っている。
そんななか、常に新しい取り組みを続けているのが、神戸に本社を置く創業90周年を迎えた日本真田帽子株式会社だ。
4代目代表取締役社長の阿部浩介氏は「帽子メーカーとして会社の利益を伸ばしていくことよりも、国内で販売される帽子の質を守ることに重きを置きたい」と語る。
世の中の流れや消費者の志向の変化に左右される服飾業界で、挑戦を続ける社長の思いを伺った。
留学中に突如訪れた家業の危機
――入社されたときのエピソードをお聞かせいただけますでしょうか。
阿部浩介:
私が日本真田帽子に入ったのは30年近く前なのですが、ちょうど日本のバブル経済の崩壊と阪神・淡路大震災のダブルパンチを受けたときだったんですね。
そのとき私はアメリカへ留学していたのですが、震災で会社も家も倒壊してしまい、志半ばで家に呼び戻され、会社を立て直すために奔走しました。
大口の取引先の衰退や倒産などで販売先がなくなってしまったので、当時勢いのあった新興帽子ブランドに、片っ端から営業をかけて帽子を作らせてほしいと売り込みをしたんです。
そんな中、当時勢いのあった帽子ブランドメーカーと商談したところ、翌週には先方のデザイナーさんが当社の工場に来られ、取引が始まりました。
取引を開始した90年代は、日本の製品は価格が高いわりに品質が特別優れている訳でもなかったことから、メーカー各社が中国に生産拠点を移し出した頃で、安く作れる中国の工場に依頼が集中し、多くの同業者が工場を閉め、国内の縫製業が淘汰された時代であったことから、新しい取引先を見つけるのには苦労しました。
――予期せぬタイミングで家業にお入りになったわけですが、いずれは会社を引き継ぐと意識されていたのでしょうか。
阿部浩介:
長男ということもあり、祖父から「お前が跡取りだぞ」と言われていたので、何となく意識はしていましたね。
また、子どもの頃から帽子のてっぺんにボタンを取り付けるのを手伝ったり、父親がトランクに帽子を詰め込んで出張に行くのを見たりしていたので興味はありました。
今となっては家業を引き継いでよかったなと思っています。
――経営者になられた当時の思いについてお聞かせいただけますでしょうか。
阿部浩介:
私は留学から帰ってきてすぐ家業に加わったので、他の会社を知らないことがずっとコンプレックスだったんです。
けれど、別の会社に入っていたら良いところを真似ようとしていたかもしれないですし、他を知らないからこそ私なりの考えで進めてこられたので、これはこれで良かったのかなと思っていますね。
父親も私がやることに対しては何も言わなかったので、自由にやらせてもらいました。
ただ、ビジネスの知識が足りない分、あらゆる企業の経営者の本を読んで勉強もしてきました。
このやり方はうちにも使えそうだな、この言葉は素晴らしいなというのを書き留めておいて、いろいろな人の知恵をミックスさせて自分の事業に活かしてきました。
帽子メーカーとしての強み
――アパレル業界では苦戦を強いられているメーカーが多い印象を受けますが、帽子業界はどうなのでしょうか。
阿部浩介:
当社でバッグやリュック、ポーチなどの服飾雑貨を取り扱ってみて気付いたのですが、アパレル業界の競争はものすごく厳しいなと感じましたね。
一方で帽子を専門に作っているメーカーはバッグやシューズに比べて少ない、いわゆるブルーオーシャンなんです。
百貨店でも30店舗以上のアパレルブランドがしのぎを削っていますが、帽子専門店は多くても2~3店舗なので洋服や靴、カバンを販売する店に比べたら戦いやすいですね。
これは帽子が必需品ではないため参入企業が少ないというのと、帽子の製造は工程が多く、たくさんの設備が必要なため、簡単に製造できないことも大きな理由だと思います。
キャップのように比較的簡単に作れるものは中国やベトナムでも製造されていますが、弊社が得意とするペーパーや麦わらを原料にしたブレードハットは国内でも作れるところは限られているんです。
ブレードハットを縫い上げる時に使うドレスミシン(下糸の無い環縫いミシン)の製造会社も国内にはもうないので、ミシン等の設備が手に入りません。
私は古いものが好きということもあり、これらのミシンも同様に、同業者や廃業される工場などから使わなくなったものを引き取ったりしていますので、とりあえず私の代はミシンが壊れても大丈夫ですが、今から新しくミシン等の設備を導入するのは難しいので、他社はなかなか参入できないと思いますね。
――貴社の強みについてお聞かせください。
阿部浩介:
当社は特別優れた技術力を持っているわけではありません。
その代わり、常に時代の流れに合わせて変化を遂げてきたのが大きなポイントだと思っています。
最近だと新型コロナウイルスの蔓延で街に出る人が減り、大手アパレル会社やセレクトショップの売上が落ちた時期があったんです。
そこで人々のライフスタイルがアウトドアに向いていることに目を付け、アウトドアに特化した商品を企画して大阪や東京の大きな展示会に出展したところ、釣具メーカーやキャンプ用品メーカー、ゴルフ用品メーカーなど新しい取引先の獲得につながりました。
また美容意識の高まりや、熱中症対策への関心の強まりを受け、ドラッグストアやディスカウントストアへの提案も行っています。
日焼けや美白グッズ売り場にはUVカット機能のある帽子、熱中症対策用品売り場には遮熱シートが入った帽子を置いてもらえるよう、パッケージ化し棚に並べやすいよう工夫しました。
こうして世間で今何が求められているのかを察知し、積極的に商品を提案していくことを意識していますね。
子ども服チェーン店と提携したきっかけ
--これまでを振り返って転換期となったポイントはありますでしょうか。
阿部浩介:
服飾メーカーは問屋や商社を通して販売店に自社の商品を卸すのが一般的だったのですが、次第にメーカーと販売店が直接取引を行うようになってきたんです。
こうした商流の変化が起きたことで、自分たちで取引先にどんどん商品を提案していかなければダメだと気付き、デザイナーを雇ってブランド力を強化しました。
すると、販売店が直接当社に依頼してくださるようになりました。そのひとつが子ども服を手がけている西松屋さんです。
長年の付き合いで信頼関係があったバイヤーの方からの依頼を受け、当時全国で200店舗ほど展開していた西松屋さんと直接提携させていただきました。
それから西松屋さんの店頭で当社が手がけた帽子を見たことがきっかけとなり、赤ちゃん本舗さんやしまむらさんとの取引も始まりました。
――貴社が高い評価を得られた要因は何だと思われますか。
阿部浩介:
西松屋さんや赤ちゃん本舗さん、しまむらさんは低価格が売りなので、中国製やベトナム製など海外製のものがほとんどです。
当社は創業当時は紙の糸の輸出を行っており、長年に渡って中国との貿易を行っていたため、日本の帽子メーカーの中で一、二を争うぐらい海外とのパイプが太いんですよ。
当時は帽子の輸入を行っていたところが少なかったため、すぐに取引を開始できた当社は重宝されたのだと思います。
また私自身が海外に出て行くことに抵抗がなく、中国との商談を果敢に進めていったのも大きいでしょうね。
このように各国にパイプがあったこと以外にも、依頼されたものを断らずにすべて引き受けてきたことも信頼を得られた要因だと考えています。
たとえば帽子を1つ100円で作ってほしいと言われたときもその場で断らず、いったん持ち帰って社員みんなで考えましたね。
やりがいのある未来のために帽子を作り続ける
――貴社では高品質な自社ブランドと、しまむらさんや西松屋さんのように低価格の商品とで、ブランド名を分けるというお考えはなかったのでしょうか。
阿部浩介:
自社ブランドと低価格で提供している商品を切り離したいという考えはなく、安いものから高級なものまで提供できるメーカーでありたいと思っています。
組合の方などからも「安い帽子を作らずに高い帽子を作った方が利益になる」と言われることがあります。
しかし、当社がワンコインで販売されている帽子の発注を断ったら、販売店は価格を据え置くために帽子専門のメーカー以外のところに依頼されるでしょう。
そうすると流行りのデザインだけを取り入れ、帽子本来の機能を持たないような商品が出回るかもしれません。
子どもたちがかぶる帽子が質の悪いものであってほしくないので、たとえ利益が少なくても帽子メーカーとして国内で販売される帽子の品質を守りたいという思いでやっています。
それに当社で作った帽子をかぶったお子さんが、笑顔で映っている姿をテレビで見かけるとほっこりしますし、自分たちが携わった商品が世の中に出回ることで、社員たちのやりがいになると思うんです。
また、日本人で帽子をかぶる習慣がある方って10人に1人ぐらいなので、日常的に帽子をかぶる方が増えてほしいとも思っています。
粗悪品を買うことで「自分には帽子が似合わないんだ」と思ってしまい、帽子の需要が減ることを心配しています。
そこで当社で低価格かつ質の良いものを作り、帽子をかぶる方を増やすことで、少しでも業界の発展に貢献できればうれしいですね。
そして帽子に興味を持った方が、今度はもうちょっといいものを買ってみようかと百貨店や専門店を訪れ、他社のブランドも含めた国産当社の自社ブランドの購入につながることをも期待しています。
こうした消費者の行動変化が、日本国内に製造拠点を置く帽子製造業界全体の発展につながればうれしく思います。
日本真田帽子の今後について
――今後どのように事業を進めていこうとお考えなのでしょうか。
阿部浩介:
当社で特に力を入れているのがアジアへの販路拡大です。
中国の方は髪の毛をきれいに染めてパーマをあてていたり、インドネシアやベトナム、フィリピンの人々もきちんと着飾っていたりと、美意識が高いと感じています。
特にアジアの中でもここ10年で目覚ましい進化を遂げている中国に注目しています。
中国出身でWeb担当の社員には、中国で使われているSNSで情報発信をしてもらっているのですが、一気に情報が拡散されたことがありました。
それから中国の人気女優が当社の帽子を絶賛したことで、中国国内で10年以上も売れ続けるヒット商品が生まれるなど、中国では一度バズったら瞬く間に国民に広がっていくんです。
また中国は少し前まで自転車に乗っていた人がベンツを運転していたり、家に電話すらなかった家庭でもiphoneを使いこなしていたりと、日本の4倍ぐらいのスピードで経済発展しているような感覚を持っています。
こうした背景からすでに成長を遂げた先進国ではなく、まさに今勢いのある国へ進出していきたいと思っています。
創業100年を迎えるにあたって次世代へ伝えたい想い
――今後の目標についてお聞かせください。
阿部浩介:
当社の理念に掲げている「実現に向けて挑戦する人材の創造」のとおり、社員にはどんどん新しいことに挑戦してほしいと思っています。
取引先から提案を受けたときは、いったんすべて受け入れてくるようにと言っていて、たとえば、競争率の高い服や靴以外だったら、ベルトやネクタイ、眼鏡などにチャレンジしてもいいよと。
当社はいわゆるエリート集団ではないので、スポーツで例えるとサラブレッドでもない、甲子園に出たこともないような無名の選手を育てるイメージですね。
このメンバーで勝つためにはどうすればいいか、どんどん新しいアイディアを出してもらって挑戦し続けなければいけないと思っています。
私は部員たった10人で甲子園に出場し、ベスト4まで勝ち上がった池田高校の蔦文也監督が仰った「徳島の山間で育った子どもたちに、一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」という言葉が好きなんです。
当社の社員たちも胸を張って営業活動をして、大海原に出ていってほしいですね。
当社は創業から90年を迎えましたが、私の代までは何とか突っ走ってこられたものの、次の代になったら会社を取り巻く環境も大きく変わっていくでしょう。
創業100年を迎えるまでに社員との面談を重ねながら、人事評価制度や組織のルールをきちんと整理し、新しく入ってきた人も溶け込みやすい会社にしていきたいと思っています。
編集後記
アメリカで最先端の技術を学ぼうと意気込んでいた最中、志半ばで帰国を余儀なくされた阿部社長。それでもあきらめず東京の帽子販売店に直談判し、存続の危機を乗り越えた。
服飾業界は、職人不足や売れ残り商品が大量発生する余剰在庫の問題など、さまざまな課題が山積している。それでも国内で販売される帽子の質を守りながら、新たな挑戦をし続ける日本真田帽子株式会社の今後に期待だ。
経営者プロフィール
阿部 浩介(あべ・こうすけ)/1969年4月25日生まれ。大学卒業後、アメリカに留学した2年後に阪神・淡路大震災が発生し急きょ帰国。日本真田帽子株式会社に入社後、2014年代表取締役社長に就任。2018年に純国産帽子ブランド「AURELIA(アウレリア)」を立ち上げる。