※本ページ内の情報は2024年1月時点のものです。

1971年の創業以来、人材派遣業界のトップランナーとして走り続けてきた株式会社新日本。直接雇用が一般的だった時代に、派遣スタイルの働き方を考案した先駆的な企業であり、現在は大阪本社をはじめ全国に30か所以上の拠点を持つ。

父である先代から事業を受け継いだ2代目社長の岩重正一氏に、就任までの経緯や今後の展望をうかがった。

経営者になるまでの道のり――きっかけは「将来への不安」

ーー経営者になられた経緯をお聞かせください。

岩重正一:
大学卒業後、父が大阪市淀川区で経営していた鉄工所を手伝い始めたことがきっかけです。当時は小さな工場で下請けの加工作業をしていたため、「この仕事は将来的に継続できるのだろうか」と疑問を持っていました。

そんな中で、お得意先から「できればうちの工場へ来て作業してほしい」というお話がありました。お互いに経費を節減できるからとアドバイスをいただき、3人の職人を送り込んで取引先で仕事をしてもらうスタイルを始めたのです。

ーーその時代はまだ人材派遣業者がなかったかと思います。

岩重正一:
あくまでも難易度の高くない作業が中心でしたが、高度経済成長期で現在以上に人手不足だった当時としては画期的だったと思います。

やがて、尼崎をはじめとして2、3社ほどの取引先工場とのつながりを持つようになり、事務所を構えて個人で事業化しました。それから5年後の1971年に「新日本」として法人化し、仕事を広げていった次第です。「人材派遣」という業務が世間に認知されたのは、さらに15年ほど経った頃ではないでしょうか。

応援作業として出向する状態が10年ぐらい続き、従業員が約100名になった段階で大阪に本社ビルを建てることができました。

今後の新日本、アウトソーシングへの移行

ーー今後の展開についてもお話しいただけますか。

岩重正一:
人材派遣に変わる請負業が、今後発展することを見据え、アウトソーシングを増やしていきたいと思っています。人材派遣でバラバラに人を配置するよりも、生産個数を目安にして「1つの工場につき1ヶ月いくら」といった工場単位で契約した方が弊社の付加価値が上がります。お客様にも、まとめて任せられるというメリットがあるでしょう。

建物や機械はお貸りして、弊社の従業員が出向先で技術指導をする形です。検査部門や梱包作業など、欠員がある際の補充は派遣社員で補う予定です。

企業としての強み、人材の定着力

ーー人手不足の中でどのように人材を確保されているのでしょうか。

岩重正一:
人材を集めるための弊社の一つの信頼基盤は、「従業員の住まいを新日本が借り上げている」という点です。まずは従業員が住むワンルームマンションを確保して、家賃は会社が負担します。

社宅や寮制度とは異なり、普通のマンションですので自由度が高いと好評です。地方から大阪に働きに出たい方は多いものの、そういった面でのサポートを行っている会社は他にないのではないでしょうか。

弊社は、グループ企業として不動産事業部に加えて、ワンルームマンションを管理する建築事業部、不動産の仲介を手掛ける事業部を設立しています。また、新日本プランニング株式会社では、従業員の求人広告を扱っています。

若い方に向けて

ーー若手の方へ向けたメッセージをお願いします。

岩重正一:
大きな目標を達成するための計画をどう立てるか、皆さんも考えると思います。目標によってやり方を変えていかねばならない中で、私の一番好きな考え方は「カメレオンのように変化に対応できる人間になる」というものです。

「この業界・業種は絶対安心」と言えるものはどこにもなく、厳しい世の中を生きていくためには、時代を読んで自分のスタイルを変える必要があると思います。私の好きな言葉である「できなければ、できる方法を講じよう」にもつながる考え方ですね。

編集後記

先代の手伝いからキャリアジャーニーが始まり、早々に会社の将来を案じていた岩重社長は類いまれなる先見の明の持ち主だ。今後の株式会社新日本は、従来の人材派遣や業務請負とは異なる「戦略型アウトソーシング」へ移行していく予定だ。
クライアント側は、経営コストの削減や社内では採用しにくいポジション・専門性の強化が可能となる。「組織改革の切り札」を提案し続ける新日本に今後も注目したい。

岩重正一(いわしげ・まさかず)/大学卒業後、父が営む鉄工所を手伝う。1年後に独立し、岩重工業を設立。3年後に新日本商事株式会社を設立。その後の1971年に株式会社新日本、その他グループ企業4社を設立し、現在に至る。