株式会社かんなん丸は、埼玉県を中心に「庄や」などの飲食店を展開している外食企業だ。
2018年にはオリジナルブランドの「大衆すし酒場じんべえ太郎」をオープンし、新たに「ItalianKitchenVANSAN」のフランチャイジーとして展開を図り、更に女性専用AIパーソナルトレーニングジム「ファディー」のフランチャイジーに参入するなど、飲食以外の事業も展開している。
今回は、代表取締役社長の野々村孝志氏から、大学卒業後のキャリアや代表就任までの経緯や苦労されたこと、今後の展望などについて話をうかがった。
大手食品会社からナイトクラブの支配人を経て、ダイナックの専務取締役に
ーー大学卒業後、サントリー株式会社と六本木のナイトクラブで働かれていますが、その経緯や仕事内容を教えてください。
野々村孝志:
慶応義塾大学を卒業後、ラグビー部を創部するサントリーに入社し、ラグビーをやりながら酒販店向けの営業を担当していました。ラグビー引退後29歳の時に、サントリーと芸能プロダクションが共同でつくった六本木の会員制のナイトクラブで、約7年間、常務取締役総支配人として働くことになりました。バブル期の六本木のクラブでの仕事はハードでしたが、とても貴重な経験ができたと感じています。
その後はサントリーに戻り、大手外食チェーン店を担当する部署で営業を行いました。以前の営業ではお酒のみを売ることしかできませんでしたが、現場での経験が役立ち、そこでは企業の経営者に提案を行う営業も経験できました。
ーー株式会社ダイナック(現:株式会社ダイナックホールディングス)へ出向されてからのエピソードを教えてください。
野々村孝志:
最初はIRや経営企画を担当していました。非効率になっていることを効率化するところから始めましたが、効率化のために現場を変えようとしても、営業現場の部長や調理部長といった方々と衝突してしまうことが多かったのです。
「ぶつかりながらも変えていこう」と動く中で、やはり経営企画という現場以外の立場では動きにくいと感じ、最終的には私が営業のトップに立って効率化を進めていきました。
そしてダイナックが当時の東証2部に上場する時に、親会社から独立している姿勢を示すために「転籍」を求められ悩みました。それまで現場の方々を巻き込んで皆で苦労しながら頑張ってきたので、「その方々を裏切りたくない」「今後も一緒に働きたい」と思い、ダイナックの専務取締役として転籍することを決意しました。
コロナの打撃を受けた苦しい中で、代表取締役就任を決断
ーー貴社の代表取締役に就任したきっかけを教えてください。
野々村孝志:
ダイナックで7年ほど専務取締役を務めたのですが、2012年に、サントリーパブリシティサービス株式会社の代表取締役に就任しました。
役職定年を迎えた後は、サントリーグループの大手外食チェーン店を担当する部署に戻り、営業サポーターとして働いていました。その時、かつて営業担当をしていた縁で、株式会社かんなん丸の創業者である佐藤から代表取締役を受け継いだ流れとなります。
ーー代表に就任する時の心境はいかがでしたか。
野々村孝志:
ちょうどコロナ禍の影響を受け業績が1番厳しい時期だったので、「代表業をしっかりと全うできるだろうか」という不安は大きかったですね。
重い決断でしたが、今は良い決断だったと思えるように前進あるのみで取り組んでいます。
前任者と衝突する中で組織を立て直す
ーー今までで一番苦労したエピソードがあれば教えてください。
野々村孝志:
六本木のクラブに常務取締役総支配人として出向していた時に、組織が崩壊しかけたことが印象に残っています。
当時私は29歳で、飲食の仕事の経験がほとんどない中で働いていたので、私の前任の支配人(当時55歳)から業務のレクチャーを受けていました。
しかし私が業務に慣れていく中で、バブル前後を経験されたお客様の大きな変化にも拘らず、元支配人のお客様に対する接し方やメンバーの活用方法などで意見が食い違い、衝突する頻度が増えてしまいました。
その中で何とか折り合いをつけられるように、元支配人だけでなく現場のメンバーとも話し合いました。
現場のメンバーは元支配人が採用した社員ばかりだったので、私が新しい支配人になってもついてきてくれる人はいないのではないかと不安があり悩みましたが、調理場だけは賛同してくれるはず、いざとなれば自分が店内を走り回ればよいと覚悟して、引導を渡しました。ありがたいことに、社員全員が私についてきてくれました。
その後は、社員全員で店舗を良くするために、前向きな話し合いや行動を取れるようになりました。
居酒屋をもっと気軽に楽しめるものに
ーー「じんべえ太郎」の店舗数を伸ばすことができた要因は何だと考えていらっしゃいますか。
野々村孝志:
今までの居酒屋とは違った新しいコンセプトで運営できたことが要因だと感じています。居酒屋というと、大人数で楽しむ宴会の場というイメージを持たれやすいかと思いますが、コロナ禍の影響もあって宴会離れが進み、今もまだその風潮が残っています。
そのため、これからは日常的に利用でき、少人数でも楽しめる売りものが明確になっている酒場というものが必要になってくると思い、そのコンセプトで「大衆すし酒場じんべえ太郎」を埼玉地域密着で展開しました。
すると、サラリーマンだけでなく、若い女性やおひとり客の方も来店していただけるようになり、売上が上がり、順調に店舗数を増やすことができました。
飲食以外の事業展開や採用強化にも取り組みたい
ーー今後取り組みたいことはありますか。
野々村孝志:
今まで地域密着型で飲食サービスを提供してきましたが、今後は飲食以外でも、地域の皆様の健康を支えたいと思っています。その取り組みの1つとして、女性専用AIパーソナルトレーニングジム「ファディー」のフランチャイズ経営をスタートしました。
このように飲食以外の取り組みを始めると、今後は飲食の事業から離れていくのかと尋ねられることがあるのですが、そのつもりは全くありません。
これからも飲食の場でのリアルなコミュニケーションというのは廃れることがないと思ってるので、飲食事業を中心としつつ、他の面でも地域密着型で提供できるサービスを増やしていきたいと考えています。
また、採用活動も強化していく予定です。弊社の社員の平均年齢は48歳と高く、まだまだ若手・中堅社員が不足している状態です。
ベテラン社員が抜けた後も成長できるような体制にしたいと思っているので、弊社の魅力を伝え、採用活動を積極的に行っていきたいと思います。
新しいことにチャレンジしたい方はぜひ弊社へ
ーー最後に読者に向けてメッセージをお願いいたします。
野々村孝志:
弊社にはいろいろなことにチャレンジできる環境があります。「大衆すし酒場じんべえ太郎」「ItalianKitchenVANSAN」をはじめ、飲食以外のファディーなど、新しい取り組みに積極的に携わっています。そういった刺激のある楽しい環境で自分の力を試したいという方に入社していただけると、とても嬉しく思います。
編集後記
コロナ禍で代表取締役に就任したにもかかわらず、じんべえ太郎の売上・店舗数拡大や飲食外の事業展開も成功させてきた野々村社長。
長期的な成長を目指し、人材確保のため採用活動にも積極的に取り組んでいる。
さらなる発展に向かって挑戦と努力を続ける株式会社かんなん丸から、今後も目が離せない。
野々村孝志(ののむら・たかし)/1957年大阪市生まれ、慶応義塾大学卒。1980年サントリー株式会社に入社。酒類の営業経験後、1986年に株式会社クラブハウス33へ常務取締役総支配人として出向。2000年グループの外食企業株式会社ダイナックへ出向の後、2005年に東証2部上場のために専務取締役として同社に転籍。2012年サントリーパブリシティサービス株式会社、代表取締役社長就任。他グループ会社を経て、サントリーの酒類営業に復帰。2022年に得意先であった株式会社かんなん丸に入社し、代表取締役に就任。