※本ページ内の情報は2024年7月時点のものです。

風景などの図柄を立体的に彫り込んで浮き上がらせる「彫刻欄間」は、大阪欄間の代名詞といえる美しい伝統工芸品である。

その大阪欄間の文化を受け継ぎ、日本に広めてきた立役者が、株式会社岡本銘木店である。欄間の製造から始まり、木造住宅、木材のプレカット技術の開発に加え、最近では非住宅木造建築への取り組みも始め、時代と共に活躍の場を増やしている。

同社代表取締役の佐藤氏に、会社発展の経緯や、創業者である父との関係、今後の展開について話を聞いた。

積水ハウスの社長に見込まれ、全国に欄間を広める

ーー創業の経緯をお聞かせください。

佐藤朋子:
もともと私の祖父が大阪の北区の与力町という地域で材木店を営んでいました。父が「一緒に材木店をやりたい」と祖父に話したところ、自分と同じ仕事をするのも何だからと、祖父が知り合いの欄間店で社長が亡くなられたことを機にその会社を買い取り、父に譲り渡したことから始まりました。

ーーその後会社はどのように発展したのですか?

佐藤朋子:
岡本銘木店として欄間職人と共にスタートを切った父でしたが、歴史ある横堀の材木商たちにとって彼は新参者のため、材木を買い付ける際に甘く見られてしまい、ふしのある材木しか売ってもらえませんでした。そこで父は機転を利かせ、ふしの箇所をくり抜くようなデザインを描き、美しい欄間の絵を書き、それをふつうより高い手間代を出して職人に彫らせました。

安く仕入れた材木で一流の欄間職人が仕上げたその作品を手に、父は東京まで売り込みに出ました。夜行列車で東京に行き、材木店を調べて片っ端から飛び込みで営業し、また夜行列車で帰ってくる日々を続けます。その父の姿勢を大層気に入り契約を結んでくださったのが、創業したばかりの積水ハウスの創業者、田鍋社長でした。おかげで、積水ハウスの欄間はすべてオカモトブランドが入りました。

病に倒れた社長に代わり、岡本銘木店を引き継ぐ

ーーお父様のご活躍の後、どのタイミングで社長に就任されたのですか?

佐藤朋子:
私は大学卒業後に積水ハウスへ就職し、2年間在籍しました。その後1985年に父が立ち上げたベターホームという木造住宅の工務店の社長に就任し、30年間勤務したのち、父から呼ばれて岡本銘木店に戻り、管理部門の手伝いや支店回りで社員と接するようにしました。

その後父が会長になり、私の主人が社長を引き継ぎ、私は副社長となりました。しかし、主人が1度脳梗塞で倒れたことをきっかけに、2019年に私が岡本銘木店の社長に就任したのです。

ーー30年間社長を務めていたベターホームではどのような経験をしたのですか?

佐藤朋子:
ベターホーム創業時、父に「名前だけ貸してくれ」と言われて社長就任を承諾したものの、実際は釘拾いや雑用などをこなすだけ。その上、お客様からのクレームへの対応に明け暮れる日々でした。社長が女性と分かるとお客様の警戒が緩んで激しく罵倒されることばかりで、それが一番つらい経験でした。

そんな中でも、徐々に仕事を覚えて打ち合わせに同行していくうちに、現場を回ることも増えました。現場回りで得た人脈は今でも仕事につなげていますし、材木店の社長として工務店の立場でものを考えられるようになったことは経営をする上で強みになりました。

盛和塾での学びを活かし、文鎮型経営から大家族経営へ

ーー先代社長との印象深いエピソードなどはありますか?

佐藤朋子:
父が社長を務めていた頃は強烈なリーダーシップで引っ張っていく典型的な文鎮型組織で、私や主人、社員に対しても非常に厳しい態度をとり、喧嘩の絶えない険悪な雰囲気に包まれる日々が続きました。社員の気持ちを考え、組織の形を変えるために、私は稲盛和夫氏の盛和塾に入ったのです。

入塾後すぐに「まずは“お父様の言うことが全て正しい”と受け止めてください」と言われました。イエスバット法を使い、相手の意見を肯定した後で自分の思いを伝える方が父には響くと教えられたのですが、父を受け止められるわけもありませんでした。精神修行を積むべく座禅や断食などをおこない、8年かけて父との関係をようやく修復することができました。

ーー他にも盛和塾で学び、貴社で活かしている事項はありますか?

佐藤朋子:
盛和塾のフィロソフィの中で、「大家族主義で経営する」という教えがあります。父の「自分以外はただの平民」という考えでは社員は付いて来てくれません。「私はただの力のない人間だから、社員みんなで家族ぐるみの仕事をしていこう」という話を月に1度の輪読会で共有し、各支店や工場にも回って社員全員の顔と名前を把握し、どんな小さな意見でも耳を傾けられる環境をつくりました。

時代を先読みし、非住宅木造建築へ乗り出す

ーー今後は会社としてどのような展開をお考えでしょうか?

佐藤朋子:
現在、物価が高くなるばかりの状況ですので「家を建てよう」と思う人は減っていきます。それを見越して、弊社では大型の非住宅木造建築に力を入れるため、丹波篠山に大規模プレカット工場を新設しました

SDGsへの取り組みとして木材を使用した建築様式が増加していますが、大手企業では木造建設を得意としているところは案外多くありません。そこで弊社のノウハウを使っていただくべく、非住宅のプレカット技術を大手企業に向けてアピールしています。その甲斐もあって、2025年の大阪万博に向けて下請けのお仕事を多数いただき、現在フル稼働している状況です。

ーー非住宅木造建築の事業を軌道に乗せるにあたっての課題は何ですか?

佐藤朋子:
非住宅の木造建築は非常に高度な構造計算が必要なため、設計事務所に外注し、試算していただいています。そうすると費用が嵩むため、お客様への提案もコストを削った2×材(ツーバイ材)にするなど、臨機応変に対応できないといけません。

そこで技術営業部隊の精度を上げるため、プロジェクトチームを立ち上げました。「鉄を使用した方が安いのでは?」と考えるお客様に対して、「木造は加工が容易で、材料費もそれほどかからない」というメリットを明確に伝えることができるよう、チームでのマニュアルを作成しています。

ーー建築業界では深刻な人材不足が懸念されていますが、採用や人材教育についてどのような対策をとっていますか?

佐藤朋子:
日本人大工の数が減っているため、本社でベトナムから8名、ネパールから4名の就労部隊を迎えています。篠山工場と三田工場でもベトナムからの研修生を20名以上採用しており、彼らに向けて月に1度私が日本語の勉強会を開催しています。

国が違えば困っていることもあるでしょうから、勉強会と同時に1ヶ月の近況報告をしてもらうことで、彼らの生活状況も把握するようにしています。母国の家族が病気を抱えている方もおり、定期的に話を聞くことでいつでもサポートできるような状況をつくっています。

ーー今後の組織体制についての考えをお聞かせください。

佐藤朋子:
今後の社会の流れとしては、住宅の数は減っていくもののなくなることはありません。生き残るためには非住宅事業で収益を補い、長期的なスパンで住宅事業を伸ばしていくつもりです。

私はあと3年程で社長を退く予定です。非住宅が軌道に乗るまでは会社として非常に苦しい状況が続くと思いますが、盛和塾の「率先垂範する」という教えの通り、自ら真っ先に行動することで現状を打破し、2人の息子たちが担う次の世代へ会社を譲り渡したいと考えています。

また事業のみでなく、先程お話しした大家族主義の経営として、社員の状況を把握することや、誕生日にカードやお花を送り、人間関係を大切にし、ゆっくりとお茶を飲みながら会話する時間なども、これからも大切にしていって欲しいと願っています。自分の身を案じて話を聞いてくれる存在がいるのは社員にとってとても大事なことなので、みんなで声を掛け合える組織であり続けていくことを願っています。

編集後記

会社の危機を救うべく自ら学びの場へ繰り出す行動力と、細やかな社員への気遣いを併せ持つ佐藤氏。社員にとっては頼りがいのあるトップでありながら、気軽に話を聞いてもらえる母のような存在でもあるのだろう。世代交代後も、彼女がつくり上げた組織の根幹は受け継がれていくことだろう。

佐藤朋子(さとう・ともこ)/1956年、大阪市南区生まれ。神戸女学院大学卒業、積水ハウス株式会社に入社し、2年間在籍。2019年、岡本銘木店代表取締役に就任。吹田市保護司・民生委員も務めている。