超高齢社会を迎える日本にとって、健康を維持する接骨院や鍼灸院といったヘルスケア産業は重要な役割を担っている。
日本の伝統医療であるそれらの企業の多くは、高い技術力やサービスを持っているものの、ビジネス感度を磨くことにまで手が回らず、経営に苦難を強いられている。そのような現状を解決すべく、接骨院などのヘルスケア産業において、店舗運営や金融サービスなどの経営コンサルティングをおこなっているのが2004年創業の株式会社リグアだ。
同社を設立した代表取締役社長の川瀨氏は、創業者でありながら1度同社を離れ、出戻りしたという異彩な経歴を持つ。同社に戻り上場を果たした川瀨氏に、起業までの道のりと会社を離れた経緯、今後の展開について話を聞いた。
サラリーマン家庭で夢を抱いた経営者への憧れ
ーー経営者を志したきっかけは何でしたか?
川瀨紀彦:
明確に決意したのは高校生の時です。現在の経営スタイルを具体的にイメージしたのは、学生時代、お世話になった接骨院の先生へ恩返しがしたいという想いがきっかけでした。
また、母親いわく、幼稚園の頃、七夕飾りの短冊に「経営者になりたい」と書いていたようです。僕はサラリーマン家庭で育ったので、経営者に対する漠然とした憧れは幼いころから抱いていました。
ーー大学時代はどのように過ごされたのですか?
川瀨紀彦:
「経営者になりたい」という思いはあるものの、実際はアメリカンフットボールに明け暮れる日々でした。大学1年生の時に膝の後十字靭帯を損傷し、接骨院に通い先生方にお世話になりました。
先生方の技術や人柄はとても素晴らしいにも関わらず、経営の腕まで磨いているという接骨院は少なく、大学時代に経営哲学を学んでいた僕は、「僕が先生方の経営企画室的な役割を担って、先生方には治療に専念していただく、もしくは会社として大きくしたいのであれば、具体的な道筋をお伝えして、将来的なオーナーの方の金融資産を築き上げていく事が役割である」と現在の経営スタイルを着想したのです。
独立に向けて身に着けた「金融」と「経営」の知識
ーー大学卒業後は金融サービス業に就職されていますが、なぜその会社を選ばれたのでしょうか?
川瀨紀彦:
就職活動の際、経営者を志す上でまずはお金と経営の勉強をしたいと思いました。世の中にある企業のうち、30年続く会社は1万社中2社しかありません。ほとんどが潰れていく会社です。経営の生々しい現実を知り、潰れない会社を経営するために必要なノウハウを学ぶ為に中小企業向けの金融サービスに就職しようと考えました。
ーー金融サービスの会社ではどのような学びがありましたか?
川瀨紀彦:
倒産する会社に必ず共通する要因を見つけることができました。
1つ目は経営者が会社の会計を把握せずに他人任せになっていること。2つ目は価格を自分で決められないモノやサービスを扱うこと。3つ目は従業員が挨拶をせず、店舗やオフィスが汚い状況であることです。
成功するにはその逆をやれば良いのだと考え、3点を念頭に置きビジネスを設立しました。
ーーその後ホテルの再生業に転職されていますね。
川瀨紀彦:
金融サービスの会社はあくまで勉強のために入社したので、最初から「1年で辞めます」と先方にも伝えていました。会社に貢献するためにも営業成績にはこだわり、2300人程の会社社員の中でトップを獲得しました。
次のステップとして経営のオペレーションを学ぶべく、ホテルなどの再生業を生業とする企業を紹介していただき、この会社では当時ナンバー2の立場として、経営を学びました。
ひとり相撲の経営から従業員を守るために—経営理念の選定
ーー金融・ホテル再生業での経験を経て、2004年の株式会社リグア設立までの経緯を教えてください。
川瀨紀彦:
いざ独立を考えたとき、兄が柔道整復師・鍼灸師の資格を持っていたので、兄と一緒に2002年に接骨院を立ち上げました。現場は兄がとりまとめ、僕はバックヤードとして経営やマーケティングにいそしみました。
そこで学んだ接骨院運営のノウハウを他のオーナーにも提供していきたいと思い、接骨院は兄に任せて2004年に僕の会社として株式会社リグアを立ち上げました。
ーー経営理念を大切にされていますね。現在の理念を掲げるまでにどのような経緯があったのですか?
川瀨紀彦:
経営を始めたばかりの頃は、「借金を背負ってリスクを負うのは経営者である自分だけで、従業員にはリスクはない。利益が出たら全部自分のものだ」と浅はかな考えを持っていました。当然ながらそんなひとり相撲の経営では従業員がついてきてくれるはずもなく、2年と経たずに辞めていく人が後を絶ちませんでした。
「従業員にも家族がいて、自分たちの生活を守るためリスクを負って働いてくれているのだ」とそこでようやく気付くことができ、稲森和夫氏の「盛和塾」などで改めて経営について学び直しました。
今では「全従業員・家族の幸せを追求するとともに、豊かな良心を育み、社会の発展進歩に貢献する」という理念を掲げ、組織が大きくなった今でも社員に伝え続けています。
自我を見失いかけた暗黒期を乗り越え、上場へ再スタートを切る
ーー一度会社を離れたことがあるとうかがいました。その時の話をお聞かせ願えますか?
川瀨紀彦:
創業から3年後、リグアの経営は好調に進み、2007年に上場を考えましたが、夢半ばで諦めることになりました。
そんな折、別の会社で上場を目指している社長から「副社長として来てくれないか」とオファーをいただいたのです。「この会社で上場できたら、上場利益で得られた資金をリグアに還元できる」と安易な考えを抱き、副社長は他の会社経営を兼任してはいけないということも知らずに誘いを受けてしまいました。そうしてリグアを一時的に去ることになります。
副社長として就任した会社に自己資金も注ぎ込み、いざ上場をと意気込んだは良いものの、結局上場の願いは叶わず失敗に終わります。あれだけ「従業員の幸せを追求し社会貢献をする」と意気込んで掲げた理念とかけ離れ、お金のことばかり考えている自分に嫌悪を抱き、「このままでは僕は人間としてダメになる」と目が覚め、副社長を辞めてリグアに戻ることを決意しました。
ーーそこから上場へ向けて本格的に動き出したのですね。
川瀨紀彦:
リグアに帰ってきてから、将来何をしていきたいのか真剣に考え直し、「人の痛みを緩和させることに喜びを感じる」と気が付きました。接骨院の先生やオーナーなどに対して私たちのサービス・商品を提供することで、そこに通うお客様にとってプラスになることをしようと思い、会社として信頼を得るために改めて上場を決意し、2020年3月に上場を果たしました。
コロナ禍真っ只中での上場は、苦難が付きまといました。主力商材に使用されている半導体がコロナの影響で入荷できなくなり、売上が激減しました。途端に経営が苦しい状況へと陥りましたが、ここで「IFMC.(イフミック)」というマテリアルが世の中へ広められる状態となり、会社としても大変救われたというのが正直なところです。
この商材は、テイコク製薬社の畠山氏が開発したもので、実は10年程前からこの商材を世の中に広めるため、畠山氏と共に準備を行ってまいりました。
彼との出会いも僕が経営者としての在り方を学ばせていただいた、盛和塾でした。
結果的にはこの「IFMC.(イフミック)」のおかげで、業績を持ち直すことができ、今があります。
注目のマテリアル素材「IFMC.(イフミック)」で世界を健康に変えていく
ーー今後の展望を教えてください。
川瀨紀彦:
made in Japanの強さを世界に出していくべく、海外進出を目指しております。今後、日本は人口も減り自給自足ができる力もなく、海外に拠点を持たない企業は継続が厳しくなるでしょう。従業員とその家族を守っていくためにも、海外とのネットワークを構築しておく必要があります。
ーー海外進出にあたって、どのような事業を進めていく予定ですか?
川瀨紀彦:
弊社の新商品である「IFMC.(イフミック)」というマテリアルを世界へ向けて販売していきます。
「IFMC.(イフミック)」は薬やサプリメントのように服用する必要がなく、身体に近接させることで血中の一酸化窒素(NO)が作用し、血行促進などのさまざまな効果が期待できる物質です。10年前にこの素材を見つけ、アカデミックな機関と更なる研究を続けるとともに、様々な企業と共同で衣類や寝具などの商品化を進めました。
「世界を健康に変えていく」をテーマに海外市場へ参入していきます。
編集後記
経営の不安から「お金が第一」という思考に囚われ、従業員への思いやりを見失った時期を自らの力で乗り越えた川瀨社長。組織が大きくなっても会社全体に経営理念を浸透させるべく、時代ごとにさまざまな工夫を凝らして伝えているという。
確かな経営の感性と従業員への愛情を兼ね備えたリグアの快進撃は、今後も勢いを増していくだろう。
川瀨紀彦(かわせ・のりひこ)/1976年大阪府生まれ、甲南大学卒業。金融サービス業、ホテル再生業を経て2004年に株式会社リグア設立。「健康」と「金融」をキーワードにした独自の視点と、財務・人事・教育・企画運営のコンサルティングを強みにグループ経営を行っている(6社)。ヘルスケア関連事業を通じ、人々の健康寿命延伸をサポートする事業を展開している。