※本ページ内の情報は2024年8月時点のものです。

1921年の創業以来、大正時代から広く事業を展開してきた株式会社山徳。業務用の海苔を中心に、贈答用の椎茸や豆も扱ってきた。ひとたび工場をつくれば、続々とラインを構築し、特許を取得した機械で新たなチャンスを生み出してきた。

昨今ではECサイトと徳三郎本舗美原店での小売販売、豊中でのおにぎり屋:米人キッチンやB型就労支援福祉事業所の展開も行っている。柔軟な施策の数々で最前線を走ってきた4代目社長の汲田博之氏に、山徳に入社した経緯や商売の心得、今後の展開について話をうかがった。

先代社長の兄に振り回されて始まった仕事人生

ーー家業である山徳に入った経緯を聞かせてください。

汲田博之:
長男の兄が26歳で社長になったことが始まりですね。当時の私はまだ大学生でした。商売を広げようとした兄が、海苔乾物だけでなく従来から行っていた食品販売事業も充実させようと動き始めて非常に忙しくなったのです。

当時の大手食品メーカーや大手スーパーチェーンさんにも納品が多くなる中、関西某有名デパートの出店も決まったときに、「手伝ってくれ」と引っ張り出されたのが私の最初の仕事でした。実地で商売を学ぶことに専念したくて、大学を自主卒業して、新規有名デパートの店に飛び込んだのです。このときは他店との兼ね合いもあって、乾物を中心にギフト品の企画・販売を行いました。

右も左も分からないまま始めましたが、私自身が口達者であったためか、売上は良かったのです。その後も兄の指示で、次は「食品スーパーつくるぞ、海苔加工工場つくるぞ」と振り回されながら、神風特攻のような仕事を続けてきました。

ーー先代社長とは、どのような関係でしたか?

汲田博之:
途中までは最悪でしたね。学業と修業の後に即トップに立った兄と、商売の最前線にいるたたき上げの私との間で、考え方のギャップが年々大きくなっていきました。

とうとう徒労感に耐えきれなくなって、私は兄と口をきくのをやめました。兄は兄で、「喋らないなら、辞めてしまえ!」と私を追い出そうとしました。

本当に辞めようと思いましたね。妻も「あなたの好きにしたらいい」と言ってくれました。ただ、それまで命がけで取り組んできましたから、もうひたすら悔しく、涙が止まりませんでした。小さい店の小さい店長室で、涙がこぼれるままに泣いたのを覚えています。

個人的に師匠と仰いでいる方がとりなしてくださり、辞める前にもう一度だけ兄と話す機会ができました。そこで、最後だからと、片っ端から本社の欠点や業務の改善点といった私の考えをすべてぶつけたのです。兄はびっくりしていましたが、頷いて「今度本社の会議で、ぜひ言ってくれ」と認めてくれました。

初めて兄弟としての連帯感というか、つながりを感じましたね。真正面から喧嘩したことで、お互いを理解できたのだと思います。以降は話も合うようになって、私が社長を継ぎ、会長となった兄が亡くなるまで、ずっと2人で頑張ってこられました。

最悪のタイミングで起きたリーマン・ショックで、資金繰りの危機に

ーー50年間勤務してきた中で、苦労したことは何でしょうか?

汲田博之:
2008年のリーマン・ショックのときですね。弊社のお客さまは需要の高い内食、中食の生産に関わる方も多いので、コロナショックのときは10%ほどの減益で抑えることができました。

しかし、リーマン・ショックのときは、ダメージを受けた銀行の圧力がすごかったのです。単純な貸し渋りだけでなく貸しはがしといいますか、ひたすら返済を求められるばかりでした。

海苔の業界は1月から4月にかけて仕入れをして、お客さまと話をして、条件と納品を決めていきます。年明けが一番キャッシュの必要なタイミングなのです。最も資金の必要な時に銀行から返済を迫られたので、四苦八苦しました。私や兄の保険、口座を解約して何とかしのぎましたが、あのときは危機的状況でしたね。

周りの人々の幸せが最優先。日本の海苔を守っていくために、さらなる成長を

ーー事業を続けていく上で、大切にしていることを教えてください。

汲田博之:
商売人の娘として育った祖母の話が、今でも私の根っこの部分にあります。

「世の中を水の張った、大きなたらいと考えてみなさい。水が欲しいと手前を下げれば、たらいからどんどん水がこぼれてしまう。水が欲しければ、まず自分の手元から、水を送り出しなさい。すると回りまわって自分の手元に波のように返ってくる。商いとはそういうものだ」と。

自分のために稼ぐのでなく、お客さまや関わる人々が幸せになるように、社会の役に立つように商売をしていれば、必ず利益を置いていってくれる。商売の中心はこれに尽きると考えています。

ーー山徳グループの今後の展望について聞かせてください。

汲田博之:
世界的なインフレで経済が揺れる中、日本はまだ比較的緩やかな変化で済んでいますが、その分競争に負けてしまっている面があります。海苔においても同様の状況があり、国内シェアが主で、品質と価格のコントロールが可能だった時代が終わろうとしているのです。

海苔の生産量は1990年代の100億枚をピークに、2023年は49億枚と全盛期の半分という現状。美味しい日本の海苔が、伝統から伝説になってしまうのを防ぐためにも、山徳グループとして海苔の販売を守りつつ、海苔だけに頼らない経営も計画・実行しているところです。「今日より明日、明日より明後日」という思いを胸に、これからも皆様とともに進んでまいります。

編集後記

汲田社長は社会人になりたての頃からひたすら真摯に、ときには先代社長とぶつかり涙を流しながら、家業に打ち込んできた。海苔の事業は生産量も落ち、世界からの影響も増す苦境にあるが、日本が誇る美味しい海苔を守っていくための山徳の試みに期待したい。

汲田博之/1954年大阪府生まれ。清風高校を卒業後、神戸学院大学を自主卒業。1974年に株式会社山徳に入社。部長、常務の職を経て2005年、4代目代表取締役社長に就任。