※本ページ内の情報は2025年7月時点のものです。

プラスチック加工を基盤に、排水処理をはじめとする水関連事業で独自の地位を築く関西化工株式会社。同社は創業以来、「メーカーであること」にこだわり続け、時代の変化を先読みした事業転換と、困難をチャンスに変える独創的な技術開発で成長を遂げてきた。近年では国内のインフラ老朽化対策で手腕を発揮する一方、その技術と新たな発想を携えて、インドをはじめとするグローバルサウスへの展開を加速させている。遊び好きの少年が、いかにして稀有な開発型企業を築き上げたのか。取締役会長の余吾俊氏に話を聞いた。

教師家系に生まれ、商売を志した理由

ーー会長はどのような子ども時代を過ごしましたか。

余吾俊:
私の実家は、両親が学校の教師という真面目で窮屈な家庭でした。しかし、私だけが突然変異で、勉強そっちのけで遊んでばかりいましたね。熱しやすく冷めやすい性格で、真面目に勉強することは格好悪いと感じる、少しひねくれた世代だったのです。学校の先生や役人といった立場は嫌で、何か自分で商売がしたいという気持ちが中学生の頃からありましたね。

ーーサラリーマン時代はどのような経験をされましたか。

余吾俊:
「3年で辞める」と宣言して社会人になりましたが、営業の仕事は真面目にやりました。人生は甘くないとわかってはいたからです。それでも仕事が終われば麻雀と酒に明け暮れる日々は変わらず、体重もあっという間に増えました。結局、仕事が面白くて4年間在籍しましたが、独立することだけは常に考えていました。

前職社長の激励を背に、念願の「メーカー」として独立

ーー4年後に退職し、起業した経緯を教えてください。

余吾俊:
社長からは「やりたいことがあるなら、うちでやれ」と何度も止められました。しかし、最後は手紙をしたため退職しました。今思えば虫のいい話ですが、独立後すぐにその社長に仲人をお願いし、「仕事をください」と頼みに行ったのです。

社会人になった当初からその社長を尊敬していました。私の将来を心配して引き留めてくれた恩義がありながら、そんな頼みごとをする。我ながら厚かましいとは思いますが、そのおかげで最初の仕事をいただくことができました。

ーー起業当初から「メーカー」になるという強い思いがあったそうですね。

余吾俊:
小さい頃から、自分で何か物をつくって売りたいという気持ちがありました。かつての日本では下請け構造が産業の主流であり、その仕組みによって企業は規模を大きくすることができました。しかし、私は下請けではなく、小さくても自分たちで考えたオリジナル商品を売るメーカーになりたい思いがあり、それがすべての原点です。

市場の変化を先読みし、新たな事業の軸を確立

ーー事業内容を教えてください。

余吾俊:
弊社は長年、排水処理設備に必要不可欠な水処理関連製品の開発・製造・販売を行なっています。メーカーとして自社研究・自社開発、さらには産学共同研究をし、市場のニーズを捉えた高品質な製品や、お客様のご要望に応えたオリジナル製品の開発に力を注いでいます。

かつて日本の川はひどく汚れており、下水道や浄化槽の整備と共に弊社も成長しました。しかし、今や環境は改善され、浄化槽メーカーも200社から数社に淘汰されました。競合が次々と撤退していき、需要が減退する市場になったのです。

ーー需要が減る中で、どのように活路を見出したのですか。

余吾俊:
10年以上前から、次の一手を考えていました。それが、50年かけて日本中に整備された膨大な数の水処理施設が迎える「老朽化」の問題です。トンネル事故などが話題になる前から「老朽化ビジネス」を提唱し、長寿命化や省エネを叶える製品開発に注力しました。今では売上の半分以上を老朽化対策が占める、独壇場ともいえる状況です。

ーー水処理を行う貴社が、なぜフラワー事業を始めたのですか。

余吾俊:
私たちはプラスチックを素材に物を作る会社です。その技術を応用し、洋風化する日本の住宅に合う、シャープでデザイン性の高いプラスチック製の鉢カバーをつくろうと考えたことが始まりです。

今では、自社ショップによる生花の販売、オリジナルの花関連商材の開発・製造・販売を行なっています。既存事業のバイオテクノロジーを活用した切り花用鮮度保持剤「フローレンスウォーター」の開発・商品化など、社会のニーズに対応できて、かつ環境に配慮した商品を提案し続けています。

壁を乗り越える先にこそ、本物の商品が生まれる

ーー事業が軌道に乗るきっかけとなった出来事は何でしたか。

余吾俊:
自社で開発した製品が、面白いように浄化槽メーカーや水処理企業に横展開していった時です。「こういうことか」と、メーカーになることの手応えを掴んでから、事業はどんどん伸びていきました。

ーー成功するまでやり続ける、その原動力は何ですか。

余吾俊:
単純に、面白いからです。10挑戦して、うまくいくことは3つもありません。多くの人はそこで挫折しますが、うまくいかない時こそがチャンスだと気づいてからは、何も怖くなくなりました。壁にぶつかってからが本当のスタートです。そこで新しいものが生まれ、より良い商品になるのです。

たとえば、下水処理で使うディフューザーという製品も、最初は水深の深い場所で泡が出ないという問題に直面しました。水圧が原因でしたが、逆流防止の仕組みを加え、弁体が震えて細かい泡を出すように改良しました。こうした経験の積み重ねが会社の財産になっています。

大阪・関西万博を契機に、日本の技術を世界へ

ーー大阪・関西万博への出展が大きな転機になったそうですね。

余吾俊:
排水を浄化するだけでなく、そこに含まれる窒素やリンを肥料として再利用するという、全く新しい発想が評価され、大阪・関西万博「大阪ヘルスケアパビリオン」への出展が決まったのです。これまで、日本の行政はこれらを規制してきましたが、その結果、水がきれいになりすぎて海の磯焼けといった問題が起きています。

弊社の取り組みは海外からも注目を浴び、「排水を資源として活用し、オーガニック野菜をつくりましょう」という提案には、特にインドの方々から強い共感を得られました。インドの大学と共同研究を進め、法律の整備から働きかけていくことが決まっています。

ーー今後の海外展開の展望をお聞かせください。

余吾俊:
今後の中心は間違いなくグローバルサウスで、特にインド、インドネシア、ベトナム、タイといった国々です。国が豊かにならないと環境整備は進まないので、まずは経済成長が見込まれる地域から展開します。インドネシアの財閥からも声がかかり、現在は連携を深めている段階です。

独自の開発体制とネットワークで未来を切り拓く

ーー物流コスト削減にも注力されているそうですね。

余吾俊:
私たちは大きな製品を扱うため、運送が課題でした。そこで、全国の加工会社と「外注ネットワーク」を構築し、お客様の最も近い場所で製造・納品する仕組みを進めています。いずれは発注者であるお客様も巻き込み、三方よしのネットワークを完成させたいと考えています。

ーー社員を巻き込んだユニークな取り組みはありますか。

余吾俊:
「オリジナル商品開発コンテスト」が一番盛り上がっています。新入社員から役員、さらには経験豊富なリタイア組である「シニアチャレンジャーズ」までがチームを組み、新製品のアイデアを競い合うのです。女性リーダーのチームも多く、若い世代の発想から特許が生まれることもあります。

ーー今後の目標についてお聞かせください。

余吾俊:
国内では老朽化対策という安定した基盤を固めつつ、海外、特にグローバルサウスで事業を大きく伸ばしていきたい。日本の人口が減少していく中で、中小企業が生き残るには海外展開と、他にはない商品開発が不可欠です。人助けになり、地球環境にも貢献できる。こんなに面白いことはありません。

編集後記

教師一家に生まれながらも、商売への飽くなき探求心と、誰にも負けない人脈形成術を身につけた余吾会長の歩みは、常識にとらわれず、自らの信念を貫くことの強さを物語る。失敗を「チャンス」と呼び、成功するまで挑み続けるその姿勢は、社内に革新的な開発文化を根付かせた。国内市場が縮小する中、いち早く海外、特にグローバルサウスに活路を見出し、壮大なビジョンを描く。その視線は、単なる企業の成長だけでなく、技術を通じた国際貢献へと向けられている。

余吾俊/1950年、愛媛県生まれ。4年間の社会人経験を経て、1976年に26歳で独立し、関西化工株式会社を創業。以来、代表取締役として同社を牽引し、プラスチック加工技術を核とした水処理事業で多くの独自製品を開発。現在は取締役会長として、新技術開発や海外展開の先頭に立つ。