
岐阜県多治見市に本社を構え、タイル事業を核に成長を続ける株式会社ひかりホールディングス。同社はタイルの加工から販売、工事、改修までを一貫して手がける。この体制を強みに、相乗効果を重視したM&A戦略で事業を拡大してきた。同社を率いるのは、代表取締役の倉地猛氏である。父の急逝によって多額の借金と共に事業を継承。幾多の困難を乗り越え、東京プロマーケットへの上場を成し遂げた人物だ。上場後、一度は目的を見失いながらも「理念経営」と出会い、再び力強く歩み始めた。その挑戦の軌跡と未来への展望に迫る。
ラーメン屋志望から一転 父の跡を継ぎ逆境からの船出
ーーまずは、倉地社長のキャリアの原点についてお聞かせください。
倉地猛:
高校生のころから独立したいという気持ちが強く、人より稼ぐことに強いこだわりがありました。当時は「お金があれば何でもできる」と考えており、そのための手段としてラーメン屋で修行し、300店舗ほどのフランチャイズ展開を夢見ていました。しかし、タイルの商社を経営していた父から「一度、うちの商売を見てみろ」と言われ、その土台を活かさないのはもったいないと感じたのです。「大学へ行ったと思って5年間修行してこい」という父の言葉を受け、名古屋の会社でタイル工事の現場監督としてキャリアをスタートさせました。
ーー貴社入社後、社長に就任されるまでの経緯を教えてください。
倉地猛:
5年間の修行を終え、23歳で弊社に入社しました。それから10年ほど、父や母、弟たちと家業を切り盛りし、売上が2億円に届こうかという33歳のときに法人化を果たしました。しかし、その直後に父の病気が発覚し、35歳で突然、代表取締役に就任することになりました。経営の知識は全くなく、そのとき初めて、全責任を負うトップとナンバー2の違いを痛感しました。
ーー社長に就任された後、特にご苦労されたことはありますか。
倉地猛:
父が亡くなった後、当時の売上と同程度の多額の借金があることが分かりました。とにかく借金を返すことだけを考えていましたが、返済しても税金で手元にお金が残りません。そのとき「返さなくてよい借金はないのか」と模索する中で、IPO、つまり株式上場という手段にたどり着きました。38歳のころ、銀行員の友人に「上場したい」と相談したところ、「売上10億円、経常利益5000万円が一つの目安だ」と聞き、そこから明確な目標が定まりました。
当時、社員の意欲は低く、むしろ協力的ではありませんでした。「また何かやっている」という雰囲気で、私一人が熱くなっている状態だったのです。そんな中、唯一「あんたはすごいね、やりなさい」と背中を押してくれたのが母でした。
逆境を好機に リーマンショックでの逆張り投資

ーーこれまでに起こった最大の危機はどのようなことでしたか。
倉地猛:
2007年のリーマンショックは本当に厳しかったです。建築需要が完全に止まり、年間1億円近い赤字を出しました。銀行からも見放され、資金繰りに窮しましたが、国策の融資で何とか1億円を確保できました。しかし、このままではいずれ立ち行かなくなると感じていました。
そこで、その渦中に、確保した資金を使って工場の増設という大きな賭けに出ました。経済はいずれ回復すると読んでいたからです。競合他社が人件費削減などで耐え忍ぶ中、弊社は逆に人も増やしました。その結果、市況が回復したとき、他社は人手不足で受注に対応できませんでしたが、弊社には仕事を受けられる体制が整っていたのです。その機を逃さず一気に業績を伸ばし、大きな利益を出すことに成功しました。
理念経営との出会い「アメリカ合衆国」のような最強の組織へ

ーー上場を果たした後、ご自身や会社にどのような変化がありましたか。
倉地猛:
上場後、正直「あれ、こんなものか」と目的を見失ってしまいました。転機となったのは、ある方との出会いをきっかけに学んだ「理念経営」です。「何のために、誰のために、なぜやるのか」を突き詰める中で、会社の在り方が明確になりました。目指すのは、多様な州が集まりながらも共通の理念で成り立つ「アメリカ合衆国」のような会社です。ホールディングスの下にさまざまな個性を持つ会社が集うことで、最強の組織になれると考えています。
ーー経営において、最も大切にされている価値観について教えてください。
倉地猛:
「誠実」「公平」「感謝」「愛情」「挑戦」、そして「完遂」という6つの言葉を、自分の人生理念として全ての判断基準にしています。全ての物事に誠実に取り組み、トップとして公平であり、常に感謝の心を忘れない。そして、愛情を持って人と接し、新しいことへの挑戦を続け、一度始めたことは最後までやり遂げる。この価値観が、今の私の経営の土台です。
売上1000億円を見据え、「必要不可欠な存在」を目指す
ーー貴社の強みについて、どうお考えですか。
倉地猛:
弊社の強みの一つは、タイルの加工から販売、工事、改修まで、ワンストップで対応できることです。そして、M&Aを行う際は、この事業軸からぶれず、必ず相乗効果が生まれる相手と組むことを徹底しています。もう一つは、業界構造を変えようという強い意志です。実際に建物をつくる私たちが技術力を高め、ゼネコンと対等に話せる関係を築きます。最終的には、お客様から選ばれ、価格はこちらで決めるくらいの「必要不可欠な存在」になることを目指しています。
社会インフラや建築、日本の景観にとって「あの会社が絶対必要だよね」と言われる存在でありたいです。私たちの仕事が社会に貢献し、なくてはならないものとして認知されることを追求し続けます。
ーー壮大なビジョンを実現するために、社員の皆様に何を期待されますか。
倉地猛:
社員一人ひとりに、チームを率いるリーダーシップを身につけてほしいです。今後もM&Aは続けますが、買収した会社の代表を任せられるような人材が育てば、グループはさらに成長できます。新卒で入社した社員が10年後にリーダーとして活躍してくれれば、売上300億円どころか、1000億円も夢ではありません。次の世代がさらに会社を飛躍させてくれることを期待しています。
編集後記
「人より金を稼ぎたい」。その純粋な野心を原動力に、倉地氏は走り始めた。父の急逝、予期せぬ事業承継と多額の借金という逆境も、同氏にとっては乗り越えるべき壁でしかなかった。リーマンショックという最大の危機さえも、大胆な逆張り投資で好機に変える。その根底には、常に明確な目標と、それを成し遂げるという強い意志があった。しかし、個人の成功の先に見つけたのは、「理念」という、人、組織、社会を動かす、より大きな力だった。「必要不可欠な存在になる」という言葉に、業界の変革者たらんとする覚悟がにじむ。同社の挑戦は、まだ終わらない。

倉地猛/1969年、岐阜県多治見市生まれ。県立多治見高校卒業後、協和建材株式会社へ入社。5年の修業期間を経て、1993年、倉地タイル商会(現・株式会社ひかり工芸)へ入社。2005年、株式会社ひかりホールディングス代表取締役に就任。