※本ページ内の情報は2025年10月時点のものです。

堺の地に創業し、300年の歴史を誇る線香メーカーの株式会社奥野晴明堂。伝統的な仏事用の線香から、時代や顧客のニーズを捉えた革新的な商品を次々と世に送り出している。同社の代表取締役を務める奥野浩史氏は、バブル崩壊後の就職氷河期を経験。家業に戻った直後には多額の負債という厳しい現実に直面した。幾多の困難を乗り越え、父親と共に会社を成長軌道に乗せた同氏に話を聞いた。逆境からの再起、時流を読む商品開発の神髄、そして地元・堺と共に未来を創造する熱い思いに迫る。

宿命を受け継いで 逆境からの船出

ーー弊社に入社されるまでのご経歴についてお聞かせいただけますか。

奥野浩史:
家が仕事場だったこともあり、物心ついた頃から線香の箱詰めなどを手伝っていました。当時は遊び感覚でした。親とは仕事をしながら会話するのが日常でした。そのため、家業を継ぐことは幼い頃から半ば意識づけられていたのかもしれません。

大学卒業が近づき、家業を継ぐことは念頭にありましたが、まずは社会人としての経験を積もうと就職活動を始めました。しかし、時代はバブル崩壊後の超就職氷河期です。50社ほど応募しても、面接に進めるのは10社程度という厳しい状況でした。

最終的に、ご縁があった塗料メーカーの株式会社カンペハピオに入社しました。そして、営業として3年間勤務しました。当時は、家業のための修業というよりも、「とにかく社会に出て働かなければ」という思いが強かったです。

ーー家業へ戻られた経緯と、当時ご苦労されたことについてお聞かせください。

奥野浩史:
父が本社ビルを買ったタイミングで入社しました。当時の売上は2億円に満たない規模でしたが、それを上回る額の借金を抱えてしまったのです。父から「帰ってこないか?」と連絡がありました。父も会社発展の為に勝負に出たいと聞いて、家業に戻ることを決意しました。

しかし、戻ってきて目の当たりにした現実は想像以上に厳しいものでした。社内にはパソコンすら一台もありません。そのようなアナログな経営体制に愕然としました。すぐに青年会議所(JC)などに所属して経営の勉強を始めました。ただ、学べば学ぶほど自社の課題の大きさに直面し、精神的に追い詰められてしまいました。一時はノイローゼのようになってしまったのです。

私を救ってくれたのが、知人の「考えても解決しなければ、考えない方が良いんじゃない」という言葉です。このひと言で目が覚め、JCで出会った仲間たちの支えもあり、なんとか困難な時期を乗り越えられました。

「温故知新」「不易流行」の精神が生む革新的な商品群

ーー貴社の事業内容と、主力商品の特徴について教えてください。

奥野浩史:
弊社は線香の製造販売を主軸としています。父の代から大切にしている「温故知新(おんこちしん)」「不易流行(ふえきりゅうこう)」の考えに基づき、商品を開発しています。変わらない本質を守りながら、新しい変化を取り入れていくという考え方です。たとえば、約50年前に開発した煙の出ない線香の技術を応用しました。「香りもない線香がほしい」というお客様の声に応えたのが、主力商品の「極ZERO」です。香料アレルギーの方にもお使いいただけるというコンセプトで、今では弊社の看板商品に成長しました。

ほかにも、故人がお好きだったワインの香りの線香や、堺の抹茶を配合した「茶香 利休茶」など、これまでの常識にとらわれない商品を多数開発しています。美しいパッケージデザインで仏事の暗いイメージを刷新したことも、贈答用としての需要を掘り起こしました。その結果、大変ご好評をいただいています。

ーー貴社の強みについてどうお考えですか。

奥野浩史:
弊社の強みは、中小企業ならではの意思決定の速さと、それを活かした商品開発の機動力です。たとえば「令和」への改元時は、発表当日に展示会の初日を迎えました。しかし、その日のうちにパッケージデザインを完成させ、翌日から予約注文を開始しました。コロナ禍に発売した「疫病退散香」などもそうですが、常に世の中の動きを捉え、即座に形にするよう心がけています。

このスピード感を実現できるのは、面白いアイデアがあればすぐに実行に移せる体制があるからです。稟議を重ねる必要がありません。自社で製造機能を持っていることに加え、パッケージ会社といった協力会社との強固なチームワークも企画から製品化までの時間を大きく短縮しています。

企業の成長は街の発展と共に 堺に根差す経営哲学

ーー貴社のブランディング戦略について教えてください。

奥野浩史:
弊社は代理店を通じて商品を販売しているため、直接的な営業活動ができません。そこで、自社の名前を広めるために何が必要かを考えました。その結果、「堺」というブランド価値を高めることが最も重要だという結論に至ったのです。堺の線香全体の知名度が上がれば、結果的に弊社の売上にもつながると考えました。

具体的には、かつて堺市がLRT(次世代型路面電車)構想を掲げた時期に、弊社もその計画に参画しました。これは大都市の中心市街地としての堺と、観光を軸とした街づくりを進める計画でした。商店街のイベントを企画したり、観光客向けの体験プログラムを準備したりと、堺が活性化するための一翼を担おうと尽力しました。残念ながら、その計画は市長の交代などで頓挫してしまいましたが、堺を盛り上げたいという思いは今も変わりません。

歴史を未来へ 香りの文化を繋ぐ次代へのバトン

ーー今後の事業展望について、どのようなことをお考えですか。

奥野浩史:
これまでの法人向けビジネスに加え、新しい市場にも挑戦していきたいと考えています。たとえば、関西大学の学生との共同開発で生まれた、アウトドアで楽しむためのお香です。バーベキューの後などに、焚き火と共に香りを楽しんでもらうという新しい文化を提案したいと考えています。このような新商品は、アウトドアメーカーとのコラボレーションを考えています。

ーー事業承継については、どのようにお考えですか。

奥野浩史:
次世代の育成は何よりも重要だと考えています。まず、今中学生の息子には、私自身がそうであったように、少しずつビジネスの現場を経験させています。商品企画に携わらせたり、商談に同行させたりすることで、仕事の面白さを肌で感じてもらうことが第一歩です。

将来的には、自らの右腕・左腕となる仲間を見つけ、チームを率いる経験を積ませたいと考えています。息子を核とした若いチームを育てることが、5年、10年後を見据えた幹部育成の礎になると信じています。

ーー最後に、貴社が未来に向けて掲げるビジョンをお聞かせください。

奥野浩史:
第一に、お線香という「焚く文化」を、アジアが誇る文化として継承し、広めていくことです。そして第二に、300年続いたこの歴史を次代へつないでいくこと。この二つが私の使命だと考えています。

市場が縮小していく中でも、時代の変化を捉え、新しい挑戦を続ける必要があります。父が大切にしていた「温故知新」と「不易流行」の精神を受け継ぎました。そして、自社で製造までできる開発力を強みに、新たな価値を創造していきたいです。

私たちは、これからも堺という土地に根差し、「堺の晴明堂」というブランドを確立することを目指します。その実現のために、事業ビジョンとして「「現在・過去・未来 堺“香”老舗」となるために、持続可能な事業運営を行う。」を掲げています。さらに、「香を通じて、感謝と誇りを追求し新しい感動を伝え続ける」という経営スローガンの下、歩みを進めてまいります。

編集後記

堺で300年の歴史を持つ老舗の代表、十代目沈香屋久次郎を襲名する奥野氏。その歩みは、事業承継という宿命を背負いながらも、幾多の逆境を知恵と行動力で乗り越えてきた挑戦の連続であった。「温故知新」と「不易流行」の精神を胸に、伝統を守りつつも時代の変化を恐れない。むしろ楽しむかのように次々と革新的な商品を世に送り出す。その根底には、企業の成長は地域の発展と共にあるという、地元・堺への深く熱い思いがあった。歴史を未来へ、そして世界へとつなぐ同社の挑戦は、これからも多くの注目を集めるだろう。

奥野浩史/1971年生まれ。1995年、日本経済大学卒業後、株式会社カンペハピオ入社。営業活動を中心に、新製品の開発及び香りの研究等に従事。1998年、株式会社奥野晴明堂に入社。2008年、同社の代表取締役社長に就任。2012年、全日本薫物線香工業会の理事に就任。2024年、憲法記念日知事表彰。同年、大阪伝統工芸品産業振興協議会の会計理事に就任。現在に至る。