
1919年の創業以来、100年以上にわたり日本の社会インフラを支え続けてきた日本橋梁株式会社。かつては本州四国連絡橋をはじめとする数々の国家プロジェクトに参画し、インフラ整備の一翼を担ってきた。しかし時代は移り、同社は新設橋梁中心の事業から、既存インフラを維持・補修するメンテナンス事業へと軸足を戦略的に移行している。その舵取りを担うのが、代表取締役社長の渡辺昭二氏だ。技術者としてキャリアをスタートし、同社の経営危機には企画部門で銀行との交渉など再建に尽力した経験を持つ。「人生は一度きり」と覚悟を決め、歴史ある企業のトップに就いた同氏に、事業変革の最前線と、社員が誇りを持てる仕事の魅力について話を聞いた。
ものづくりの現場で培った知見 キャリア前半を支えた技術の土台
ーー社会人としてのキャリアの原点についてお聞かせください。
渡辺昭二:
私が学生だった頃は、大学のゼミの先生が進路を決めるような時代でした。その先生と弊社の設計部長が先輩後輩の間柄だった縁で、弊社をご紹介いただきました。
当時は本州四国連絡橋の建設が始まる頃で、業界に活気がありました。それまで土木工学を学ぶ学生の就職先の多くはゼネコンや官公庁が主でしたが、景気の影響で官公庁の採用がほとんどなかった時代です。そんな中、「橋梁もかっこいいな」と思い、入社を決めました。新入社員はまず設計部門で知識を身につけるのが通例で、私も4年ほど在籍しました。
その後はシステム開発部門に約6年、製作部門に約9年と、キャリアの前半約20年間は技術系の仕事に携わりました。製作部門では、工場の生産効率をいかに高めるかを考える仕事に従事しました。橋の部材は、巨大なプラモデルのパーツのようなものです。その製造において、鋼板の加工情報をコンピューターで作成し、生産ラインを自動化するシステムの運用などを担当しました。
ーー技術者としての経験後、どのようなキャリアを歩まれましたか。
渡辺昭二:
弊社は、経営的な判断の誤りから財政基盤が揺らぎ、非常に厳しい状況に陥った時期がありました。その立て直しのために経営企画部門に呼ばれたのが、大きな転機です。それまでは技術者として、いかに合理的にものをつくるかという視点しかありませんでした。しかし、そこでは会社全体の視点が求められました。どのようにして仕事を受注するのか、銀行からの信用を得るにはどうすればよいかなど、初めて経営の現実に直面します。銀行との交渉などを通じて、会社の信用を守りながら事業をいかに継続させるかという、経営の根幹を学ぶ貴重な経験となりました。
ーー技術者としての経験と、経営企画での経験は、現在の仕事にどう活きていますか。
渡辺昭二:
キャリアのちょうど半分ずつ、ものづくりの技術と会社の経営企画を経験できたことは、私にとって大きな財産です。現場のことも理解したうえで、会社全体のお金の流れや事業戦略を考えることができます。この両方の視点があるからこそ、今の立場で多角的に物事を判断できていると実感しています。
経営の根幹にある温かな社風 創業以来変わらない伝統の継承
ーー社長に就任された時の心境をお聞かせください。
渡辺昭二:
「私に務まるのだろうか」というのが、最初の率直な気持ちです。もともと自分がそのような大役を担う人間だとは思っていませんでしたから。しかし、前任の社長が長く務められた後で、会社として次を決めなければならない時期でもありました。若い頃、ある先生から「トップを目指せ」「人生は一度きりだ」と言われたことも、心のどこかに残っていました。指名されたからには覚悟を決め、精一杯頑張ろうと気持ちを切り替えました。
ーー経営において、最も大切にされていることは何ですか。
渡辺昭二:
弊社には、昔から「人を大切にする」という文化が根付いています。私自身、会社の苦しい時期を経験し、多くの人に支えられてきたため、その思いは人一倍強いです。社員が何でも相談し合える、家族的な温かさのある会社でありたいと考えています。その伝統をしっかりと引き継ぎ、人を大切にする経営を実践していくことを、常に心がけています。
製造から保守・新規事業へ 時代と共に変化する橋梁事業
ーー改めて、貴社の事業内容についてお聞かせください。
渡辺昭二:
弊社は、社名の通り橋梁の製造を主たる事業としています。しかし、日本のインフラ整備が進んだ現在、事業の重点を大きく変えてきました。現在は、建設から50年以上が経過した橋梁が増えていることから、メンテナンス(保守)事業に力を入れています。また、橋梁事業で培った技術を活かし、他社と連携しながら、高耐食性鋼材ZAM®を材料として製作した橋梁用検査路「JB-HABIS(ジェイビー・ハービス)」といった新規事業の開拓にも注力しています。
ーー貴社が手掛ける橋梁事業の魅力は、どのような点にあるとお考えですか。
渡辺昭二:
私たちの仕事は、手掛けたものが形として残り、多くの人々の生活を支え続ける、非常に社会貢献性の高い事業です。先日、ある橋の架け替え現場を訪れました。そこは道幅が狭く、車がすれ違うのもやっとという危険な場所でした。地域住民の方々が橋の完成を心待ちにされている様子が伝わってきました。人々の暮らしに直接役立っているという実感こそが、社員一人ひとりの誇りとなり、仕事への原動力になっているのだと感じます。
また、自分が携わったものが地図に残ります。たとえば、世界最長の吊り橋である明石海峡大橋も、約20社が分担して建設しましたが、弊社もその一翼を担いました。ほかにも100年前に弊社が架けた橋が、今なお現役で使われている例もあります。「ここは自分が担当したんだ」と子どもや孫に誇れる。これほどのやりがいはないでしょう。
橋梁技術を核とした未来創造 維持補修時代の新たな挑戦

ーー今後の事業展開についておうかがいできますか。
渡辺昭二:
かつてのように新しい道路をどんどんつくる時代は終わり、現在は、建設から50年以上が経過した古い橋のメンテナンスが事業の中心になっています。しかし、それだけに頼るのではなく、橋梁事業で培った技術を活かして、新しい事業の柱を育てていかなければなりません。具体的には、古い塗装を効率的に剥がす独自技術の研究や、耐久性の高い商品を他社と共同で開発するなど、少しずつ新たな挑戦を進めているところです。
ーー目標の実現に向けて、特に注力していきたいテーマは何ですか。
渡辺昭二:
まずは、これまでの官公庁中心の取引だけでなく、ゼネコンをはじめとする民間企業との連携を強化し、新たな販路を開拓していくことです。また、そのためには営業のやり方も変えていく必要があります。単に仕事を受注するだけではありません。設計段階から技術的な提案を行い、お客様と共に価値を創出する。そのような営業スタイルを強化していきたいと考えています。
ーー最後に、会社の未来を担う人材の育成についてはどうお考えですか。
渡辺昭二:
時代の変化に対応し、会社が成長し続けるためには、次世代の経営幹部の育成が不可欠です。今ある事業をどう維持し、発展させていくのか。そして、未来の収益源となる新規事業をどう育てていくのか。そうした経営の視点を、次の世代にしっかりと引き継いでいきたい。彼らが中心となって、会社の新たな歴史を築いてくれることを期待しています。
編集後記
日本の高度経済成長期からインフラの維持・管理の時代へ。社会の要請と共に、その姿を柔軟に変えてきた日本橋梁株式会社。技術畑からキャリアを始め、会社の経営危機には再建に奔走した渡辺社長の言葉には、幾多の困難を乗り越えてきた者だけが持つ重みと、未来への強い意志が感じられた。「自分がやったと誇れる仕事」という言葉が象徴するように、社員一人ひとりのプライドが、100年企業の礎を築いてきたといえる。橋梁技術という確固たる軸足を基盤に、新たな事業領域へと挑戦を続ける同社の次なる一手に、これからも注目していきたい。

渡辺昭二/1963年大阪府生まれ。1985年大阪工業大学卒業後、日本橋梁株式会社に入社。以来、40年間同社に勤務。設計、製作というものづくりの部署を経験し、経営企画部署へ異動。その後、管理部門管掌の取締役に就任。2025年、同社代表取締役社長に就任。