※本ページ内の情報は2026年2月時点のものです。

栃木県日光市に根ざし、伝統の味を守りながら革新を続ける株式会社樋山昌一商店。代表取締役の樋山裕伸氏は、かつては家業を継ぐことに抵抗を感じていた。しかし若き日の大病を乗り越え、両親の深い愛情に触れたことを機に後継を決意する。社長就任後は、旧来の門外不出主義から一転して製造工程を全て公開。「引き算」の哲学で商品の品質を絶えず磨き上げている。コロナ禍という逆境さえも地域貢献の機会と捉え、新たな挑戦へとつなげた同氏の経営哲学、そして地元・日光への熱い思いに迫る。

家業と向き合う覚悟を決めた原点

ーーこれまでのご経歴についてお聞かせください。

樋山裕伸:
特に何をしたいとの考えはなく、でも敷かれたレールをそのまま進みたくはない。そう漠然と思っていました。ご縁があって峠の釜めし本舗「おぎのや」さんで2年間修行させていただきました。そこで製造から販売、厨房、予約管理まで一通り経験し、いかに自分が未熟であるかを思い知らされたのです。多大な迷惑をかけながらも、多くのことを学ばせていただいた貴重な期間でした。

ーー家業を継ぐことを決意された経緯についてお聞かせください。

樋山裕伸:
学生時代に大病を患い、手術を受けたことが大きなきっかけです。会社が忙しい中で見舞いに来てくれる両親に対して、いかに大変な時期に自分のためにたくさんの事を投げ出してくれたことに気付くことができました。「両親やたくさんの人たちの思いに応えなくてはならない」と強く決意したことが、私の原点です。

ーー家業に入られてから、特に印象に残っているエピソードなどはありますか。

樋山裕伸:
入社当時は、何でも器用にこなす社長の息子なのだからと「きっと何でもできるだろう」という周囲からの期待や、色眼鏡で見られているようなプレッシャーに苦しみました。また、恥ずかしながら本当に失敗も多かったです。

特にフォークリフトの操作を誤って商品を積んだ容器を落としてしまったことは、大きな失敗経験です。一歩間違えれば取り返しのつかない大事故につながりかねない状況でした。ただでさえ失敗して惨めな気持ちである上に、特別な目で見られている中での失敗は、本当に耐えがたい経験でした。

しかし、そうした数々の経験から「失敗した者の気持ち」を学び、「回収できる失敗は経験」と捉えられるようになりました。時間が解決してくれた部分もありますが、周りの助けがあったからこそ乗り越えられたと感じています。

受け継いだ伝統に新たな息吹を吹き込む

ーー事業を承継される中で、従来の方針ややり方を大きく変えられた点はありますか。

樋山裕伸:
製造工程、特に醤油の製法について公開する方針に転換したことは弊社にとって大きな変革です。先代は徹底した秘密主義で、醤油の製法の公開は味の流出につながるという考え方が根底にあり、店舗の者ですら「自社で醤油をつくっているのを知らなかった」というほどでした。

しかし、商品を販売しているとお客様からたびたび製法を尋ねられることがありました。また仲間からは「本当に価値のあるものなら、製法を公開しても誰にも真似できないはずだ。それを恐れて隠すのは自信がないことの表れではないか」という言葉をかけられ、全てを公開する方針へと180度転換するに至ります。

ーー屋号を変更された理由をお聞かせください。

樋山裕伸:
それまで弊社の屋号だった「日光ろばたづけ」は競合他社との違いがお客様に伝わりづらく、インターネットが一般的でない時代にはお店まで辿り着けないという声もありました。以前から国産原料や無添加へのこだわりはありましたが、製法の独自性と名称とが結び付いていないと感じていました。2020年、日光ならではの新たな醤油の醸造を契機に、日光の醤油文化と自社のブランディングのため、「日光醤油のろばたづけ」へと屋号を変更する決断をしました。自分たちの進むべき道をはっきりと示すためには、必要なことだったと今では考えています。

ーー商品の製造にあたって、特にこだわっている点は何ですか。

樋山裕伸:
私たちは漬物をつくるために醤油をつくっています。それは単なる食品製造ではなく、微生物を育て、彼らと共に仕事をしているという感覚です。一般的な食品製造の現場では、何かを加えて味を良くしていく「足し算」の発想が多いかもしれません。

しかし私たちは、素材本来の良さを最大限に引き出すための「引き算」を重視しています。たとえば10年前の醤油は、現在のものと比べると「別物」と呼べるほど進化を遂げています。常に製造方法を見直し、磨き続けることで、柱となる製法は変えることなく、今の時代に即した最高の品質を追求し続けているのです。

地域と共に描き、未来へつなぐ光

ーーコロナ禍で特に印象に残っている出来事はありますか。

樋山裕伸:
地元のためにできることの尊さを改めて実感できたことです。2020年の4月にバスツアーの予約がすべてキャンセルとなり、売上が98%減少しました。まさに悪夢のような状況で、準備していた多くの商品が行き場を失いました。

しかし、ブランド価値を損なう安売りや、手塩にかけてつくった製品を廃棄することはしたくないと悩んだ末に、日光市内の小中学生に地元の味として食べてもらおうと寄贈しました。後日、子どもたちから手紙をいただきました。「お父さん、お母さんがしょんぼりしていたけれど、これをもらって家の中が明るくなりました」という内容で、我々の仕事は誰かを幸せにすることができるのだと、心から勇気づけられるありがたくも嬉しい経験をさせていただきました。

ーー困難な状況だったからこそ生まれた、新しい取り組みなどはありましたか。

樋山裕伸:
2020年に地元の酒粕を活用して醤油を醸造するという、前例のない仕込みを行いました。思い返すと2020年はオリンピックイヤー。インバウンド需要に向けて多くの酒蔵が日本酒を仕込みましたが、コロナ禍により観光客はもちろん地元の宴会需要も皆無。酒の需要は何とか見出したものの、その副産物である酒粕が行き場を失っていることを耳にしました。

弊社の醤油は厳選した生醤油に米糀を仕込んでいます。そこで唐突に閃いたのが「酒粕も醤油に使えるのではないか」ということでした。経験も設計図もありませんでしたが、「米糀と酒粕の原料はどちらも米。きっと相性が悪いはずがない」と確信をもって挑みました。初めて味わった時の感動は今でも忘れられません。

そして製品化のためのコンセプトやデザイン、この味を広めるために、たくさんの方々の支援があって、より骨太な製品となりました。こうして完成した日光醤油「誉」は、困難な状況だったからこそ生まれたのだと思います。この一連の出来事が「日光醤油ブランド」の立ち上げを決意できたターニングポイントとなり、「誉」は毎年造り方を変えるビンテージコンセプトを掲げた「挑み続ける日光醤油」と位置付けることができました。

ーー最後に、樋山社長が思い描く会社の未来と、地域における役割についてお聞かせください。

樋山裕伸:
忘れてはならない出来事が2008年7月にありました。それは生家であった元自宅兼店舗と工場を火災で消失してしまったことです。

それまで3ヶ所あった製造施設を2005年に本社工場として集約しましたが、本店の奥にあった設備はそのまま残しました。22日の夜巨大花火のような大きな音が鳴り響き、驚いて外に出ると木造の旧本店工場が炎に包まれていました。原因は劣化したコンデンサーの自然発火によるものでした。思い出の詰まった建物や歴史を重ねた杉樽も全て消失してしまいましたが、本社移転後だったため製造を続けることができたのは不幸中の幸いでした。

この町にかつてないほどの火災を出してしまったお詫びに、近隣の家々を訪ねたときの事です。お叱りを頂戴するかと覚悟していたのですが、「お詫びはいいから早く再建しなさい」と口々に励まされ、地域のありがたみを強く感じました。早急な再建を目指し翌2009年4月に現在の文挾宿本店が新装開店となりました。この時感じた感謝の想いは個人ではなく地域の未来のためにと考え、学校給食に「蔵出しだいこん」を提供しました。あれから数十年、この取り組みは今でも続いており、時には子供たちがお小遣いを握りしめて来てくれることもあります。

私たちが目指しているのは、利益の追求ではなく、「食」を通して地域に貢献することです。学校給食への取組も、地元の子どもたちに地域の味を知ってもらい、将来的にも自分たちの町に誇りを持ってほしいという思いからです。この日光という土地で育まれた食文化を、次の世代、そしてさらにその先の未来へとつないでいく。それが私たちの使命だと考えています。

編集後記

一度は背を向けた家業。しかし、人生の大きな転機を経て、その伝統を受け継ぐ覚悟を決めた樋山氏。その歩みは、決して平坦ではなかった。数々の失敗、旧弊との闘い、そして未曾有のパンデミック。だが同氏は、いかなる逆境も学びの機会と捉え、しなやかに乗り越えてきた。その根底には「食を通じて人々を元気にしたい」という純粋な思いがあるのだろう。伝統を守りつつ、大胆な変革を恐れないその姿勢は、地域社会の未来を明るく照らす一筋の光となるに違いない。

樋山裕伸/1975年栃木県日光市生まれ。1998年東京農業大学醸造学科卒業。峠の釜めし本舗おぎのやに入社し、2年間の修業期間を経て、2000年、家業である株式会社樋山昌一商店へ入社。2017年に同社代表取締役に就任。2021年に「おいしいを よろこびへ」を経営理念に、屋号を「日光醤油のろばたづけ」に変更した。No.1ではないがオンリーワンを目指し、社員もお客様も笑顔になれる会社経営を心掛けている。