
株式会社かんなん丸は、埼玉県を中心に「庄や」などの飲食店を展開している外食企業だ。2018年にはオリジナルブランドの「大衆すし酒場 じんべえ太郎」を立ち上げたほか、「Italian Kitchen VANSAN」や女性専用AIパーソナルトレーニングジム「FURDI(ファディー)」の運営に参入するなど、飲食の枠を超えた事業多角化を推進している。
その一方で、コロナ禍という未曾有の危機にも直面した。この困難な状況下で舵取りを任されたのが、サントリーグループで長きにわたり外食事業の最前線を走り続けてきた代表取締役社長の野々村孝志氏だ。就任直後から全社員との面談を実施して現場の声に耳を傾け、「待ち」から「攻め」の接客への転換や若手社員の抜擢など、次々と組織改革を断行している。今回は野々村氏に、大学卒業後のキャリアや代表就任までの経緯、今後の展望などについて話をうかがった。
29歳でナイトクラブの総支配人へ 前任者と衝突する中で組織を立て直す
ーー大学卒業後、サントリー株式会社と六本木のナイトクラブで働かれていますが、その経緯や仕事内容を教えてください。
野々村孝志:
慶應義塾大学を卒業後、サントリーに入社し、酒販店向けの営業を担当していました。その後、29歳の時に、サントリーと芸能プロダクションが共同で設立した六本木の会員制のナイトクラブへ出向し、約7年間、常務取締役総支配人として現場の指揮を執ることになりました。当時の六本木はバブル全盛期で、昼夜逆転の生活に加え、飲食業の経験が乏しい中での店舗運営は、まさにカルチャーショックの連続でした。多忙を極める過酷な環境ではありましたが、あの熱気の中で研鑽を積んだことは、とても貴重な経験ができたと感じています。
ーー今までで一番苦労したエピソードがあれば教えてください。
野々村孝志:
まさにその六本木のクラブに常務取締役総支配人として出向していた時に、組織が崩壊しかけたことが印象に残っています。当時私は29歳で、飲食の仕事の経験がほとんどない中で働いていたので、私の前任の支配人から業務のレクチャーを受けていました。しかし私が業務に慣れていく中で、バブル前後を経験されたお客様の大きな変化にも拘らず、元支配人のお客様に対する接し方やメンバーの活用方法などで意見が食い違い、衝突する頻度が増えてしまいました。
その中で何とか折り合いをつけられるように、元支配人だけでなく現場のメンバーとも話し合いました。現場のメンバーは元支配人が採用した社員ばかりだったので、私が新しい支配人になってもついてきてくれる人はいないのではないかと不安があり悩みましたが、「調理場だけは賛同してくれるはず、いざとなれば自分が店内を走り回ればよい」と覚悟して、自ら改革の先頭に立ちました。ありがたいことに、結果として社員全員が私についてきてくれました。
その後は、社員全員で店舗を良くするために、前向きな話し合いや行動を取れるようになりました。この時の「覚悟を持って誠実に向き合えば、人は応えてくれる」という原体験が、現在のかんなん丸における組織改革や、対話を重視する私の経営姿勢の揺るぎない礎となっています。
現場主義を徹底したサントリー時代を経て ダイナックの専務取締役に

ーーその後はサントリーに戻られますが、そこではどのような仕事をされたのですか。
野々村孝志:
大手外食チェーン店を担当する部署で営業を行いました。以前の営業ではお酒を売ることしかできませんでしたが、配属先では「現場主義」を徹底し、担当企業の新規出店があれば全国どこへでも駆けつけ、レセプションにも参加しました。
当時担当していた企業は年間50店舗近い出店ペースでしたから、毎週のように全国を飛び回り、各店舗のオーナー様や幹部の方々と酒杯を酌み交わしながら信頼関係を築きました。単にビールを売るのではなく、「貴社の発展のために何ができるか」を常に自問自答し、出店候補地の物件情報を提案するなど、コンサルタントのような役割も担っていました。「サントリーの野々村」としてではなく、一人の人間として信頼していただくこと。泥臭く現場に足を運び、相手の懐に入り込む営業スタイルこそが、私のビジネスの原点です。
ーー株式会社ダイナック(現:株式会社ダイナックホールディングス)へ出向されてからのエピソードをお聞かせください。
野々村孝志:
ダイナックが大阪証券取引所ナスダック・ジャパン(当時)に上場したタイミングで出向し、当初はIRや経営企画を担当していました。当時のダイナックは多業態を展開していたため、経営の効率化が急務となっていました。特に大きな課題だったのが、1,000社近くにのぼる食材の仕入れ先です。各事業部の調理長が独自のルートで発注を行っており、全社的な統制が取れていなかったのです。
私はこれらを集約し、コスト構造の抜本的な改革を図ろうとしましたが、現場の調理長たちからは「味を守るためのこだわりだ」と猛反発を受けました。しかし、上場企業として利益構造の改善は避けて通れません。私は新たに「商品技術開発部」を新設し、現場のキーマンとなる調理長たちを巻き込みました。彼らの職人としてのプライドを尊重しながら対話を重ね、徐々に組織全体の意識を変えていきました。
また、縦割りの事業部制を解体して「営業本部制」へと組織改編を行い、私が初代営業本部長として全体を統括する体制を構築しました。現場の反発と向き合いながら、一つひとつ非効率を解消し、筋肉質な組織へと作り替えていくプロセスは、非常にタフな経験でした。
ーーそこから、転籍を決断された背景にはどのような思いがあったのでしょうか。
野々村孝志:
2006年の東京証券取引所市場第二部への上場に際し、親会社からの独立性を明確にするため、私に「転籍」の打診があったことがきっかけです。当初は葛藤もありましたが、それまで改革を共に進めてきた現場の仲間たちへの思いが、私の背中を押しました。「苦労を共にした仲間を裏切りたくない」「この人たちと、これからも共に歩みたい」という情熱が勝り、ダイナックの専務取締役として転籍することを決意したのです。
そして転籍当日、会社へ向かうとプロパーの役員や部長たちが集まり、「今日から本当の意味で、あんたは俺たちの仲間や」と温かく歓迎してくれました。出向者という立場を超え、同じ船に乗る家族として迎え入れられたその瞬間に、「この人たちのために、命懸けで取り組もう」と固い覚悟が決まりました。彼らと共に歩んだ日々は、今でも私にとってかけがえのない財産です。
コロナの打撃を受けた苦しい中で、代表取締役就任を決断
ーーその後はどのような流れで、貴社の代表取締役に就任されたのでしょうか。
野々村孝志:
ダイナックで7年ほど専務取締役を務めた後、2012年にサントリーパブリシティサービス株式会社の代表取締役に就任しました。そこは、工場見学の来場者対応や、音楽ホール、美術館のレセプション業務などを通じ、「おもてなし」の真髄を学ぶ場でもありました。単なる接客に留まらず、お客様に特別な体験を提供し、再来店へと繋げる「ホスピタリティのロジック」を徹底的に追求する経験を得たのです。
その後、役職定年を迎えてサントリーグループの大手外食チェーン店を担当する部署に戻り、営業サポーターとして働いていたところ、かつて営業担当をしていた縁で、株式会社かんなん丸の創業者である佐藤から代表取締役を受け継ぐことになりました。
ーー代表に就任する時の心境はいかがでしたか。
野々村孝志:
ちょうどコロナ禍の影響を受け業績が1番厳しい時期だったので、「代表業をしっかりと全うできるだろうか」という不安は大きかったですね。しかし、私はこれを「組織を根底から変える好機」と捉えました。弊社は長年、トップダウンの文化が強く、現場が自ら考えて動くという風土が育ちにくい環境にあったからです。
また、業績悪化に伴う人員削減で、店舗では呼び出しボタンが鳴るのを待つだけの受動的な接客が常態化してしまっていました。私は「このままでは生き残れない」と痛感し、組織の体質改善に着手しました。重い決断でしたが、今は良い決断だったと思えるように前進あるのみで取り組んでいます。
居酒屋をもっと気軽に楽しめるものに
ーー「じんべえ太郎」の店舗数を伸ばすことができた要因は何だと考えていますか。
野々村孝志:
今までの居酒屋とは違った新しいコンセプトで運営できたことが要因だと感じています。居酒屋というと、大人数で楽しむ宴会の場というイメージを持たれやすいかと思いますが、コロナ禍の影響もあって宴会離れが進みました。
そのため、これからは日常的に利用でき、少人数でも楽しめる売りものが明確になっている酒場というものが必要になってくると思い、そのコンセプトで「大衆すし酒場 じんべえ太郎」を埼玉に地域密着で展開したのです。その際、従来の個室中心の店舗とは異なり、店内が見渡せるオープンなレイアウトにすることで、お客様の様子を常に把握し、こちらから積極的にお声がけするスタイルへと変更しました。呼び出しボタンに頼るのではなく、お客様のグラスが空く前に「おかわりはいかがですか」とご提案する。これこそが本来の飲食の楽しさであり、我々が目指すべき「攻め」の接客です。
こうした変革により、サラリーマン層に加え、若い女性や単身のお客様にも来店していただけるようになって売上高が上がり、順調に店舗数を増やすことができました。また、この改革を牽引してくれているのが、若手社員たちです。たとえば、武蔵浦和の店舗では、かつてアルバイトから社員になり、一度は店長職を退いた30代の女性社員を再抜擢しました。彼女は今、自律的な店舗運営を体現しており、次世代リーダーの理想的なモデルケースとなってくれています。
飲食の枠を超えた挑戦 「昨日より今日」の成長を追求する組織へ

ーー今後取り組みたいことはありますか。
野々村孝志:
今まで地域密着型で飲食サービスを提供してきましたが、今後は飲食以外でも、地域の皆様の健康を支えたいと思っています。その取り組みの1つとして、2023年から女性専用AIパーソナルトレーニングジム「FURDI(ファディー)」のフランチャイズ経営をスタートしました。
このように飲食以外の取り組みを始めると、今後は飲食の事業から離れていくのかと尋ねられることがあるのですが、そのつもりは全くありません。これからも飲食の場でのリアルなコミュニケーションというのは廃れることがないと思ってるので、飲食事業を中心としつつ、他の面でも地域密着型で提供できるサービスを増やしていきたいと考えています。
大切にしているのは、「わざわざのご来店に、わざわざの思いでお応えする」という精神です。コンビニやファストフードのように利便性で選ばれるのではなく、我々のお店は「あのお店に行きたい」という目的意識を持って足を運んでいただく場所です。その期待に応えるには、マニュアル通りの対応では不十分です。お客様が何を求めているのかを察知し、その期待を「少しでも超える」サービスを提供する。その「わざわざ」の一手間や心遣いが、感動を生み、再来店に繋がると信じています。
また、採用活動も強化していく予定です。弊社の社員の平均年齢は48歳と高く、まだまだ若手・中堅社員が不足している状態です。ベテラン社員が抜けた後も成長できるような体制にしたいと思っているので、弊社の魅力を伝え、採用活動を積極的に行っていきたいと思います。
ーー最後に読者に向けてメッセージをお願いいたします。
野々村孝志:
弊社にはいろいろなことにチャレンジできる環境があり、「大衆すし酒場 じんべえ太郎」「Italian Kitchen VANSAN」をはじめ、飲食以外のファディーなど、新しい取り組みにも積極的に携わっています。
そうした環境だからこそ、私は社員に「昨日より今日、何か一つでも成長しよう」と常に伝えています。飲食の仕事は、毎日同じ作業の繰り返しに見えるかもしれません。しかし、目の前のお客様は毎日違いますし、起きる出来事も異なります。ただ漫然と過ごすのではなく、「今日はこのお客様を笑顔にしよう」「このオペレーションを改善しよう」と目的意識を持ち、内省する習慣を身につけてほしいのです。
かつて六本木のクラブで支配人を務めていた頃、私はただ多忙な日々に流されていました。朝まで働き、疲労を酒で紛らわせて眠るだけの毎日。売上高の良し悪しには一喜一憂しても、「自分自身が成長しているか」という視点が欠落していたのです。「ただ業務をこなすだけでは、人は成長しない」。当時の後悔と反省が、今の私の考え方の原点になっています。そういった刺激のある楽しい環境で自分の力を試したいという方に入社していただけると、とても嬉しく思います。
編集後記
コロナ禍で代表取締役に就任したにもかかわらず、じんべえ太郎の売上高・店舗数拡大や飲食外の事業展開も成功させてきた野々村氏。「過去の自分には戻りたくない。でも、あの経験があったから今がある」と語る言葉には、失敗を糧に前進し続けるリーダーの矜持が宿っていた。トップダウンからボトムアップへ、待ちの姿勢から攻めの接客へ。野々村氏が主導する改革の本質は、単なる業務効率化ではなく、社員一人ひとりが「働く喜び」と「自己の成長」を取り戻すための物語である。「昨日より今日」。その愚直な積み重ねの先に、新生・かんなん丸の確かな未来が見えた。

野々村孝志/1957年大阪市生まれ、慶應義塾大学法学部卒業。1980年サントリーに入社。サントリーラグビー部(東京サントリーサンゴリアス前身)創部メンバー。株式会社クラブハウスサーティースリーへ7年間出向。1998年サントリー帰任外食チェーン担当。2000年ダイナック出向・転籍。2012年サントリーパブリシティサービス社長、サントリーコーポレートビジネス常務を経て、2022年にサントリーを退職。同年にかんなん丸の代表取締役社長就任。