※本ページ内の情報は2026年5月時点のものです。

1992年の設立以来、ITや音楽など多彩な専門メディアを展開してきた株式会社インプレスホールディングス。長らく出版業界を牽引してきた同社は、2025年に上場廃止という大きな決断を下した。現在、同社を率いるのは2025年に代表取締役に就任した塚本由紀氏。UI/UXデザインの世界でキャリアを築き、突然の介護離職を経て家業へ合流した異色の経歴を持つ。塚本氏が目指す自律分散型の組織づくりと、出版の枠を超えた「DtoC(Direct to Consumer)」とは。AI時代の到来と変革期において、成熟したメディアグループをいかに進化させるのか、そのビジョンに迫った。

UI/UXの現場からメディアグループへ 介護と両立しながら見えたもの

ーーまずは、ご自身のルーツについてお聞かせください。

塚本由紀:
インプレスグループ創業者・塚本(父・慶一郎氏)は大学在学中に仲間と3人で「アスキー」を立ち上げた後、1992年に株式会社インプレスを設立しました。中学生だった私にとって、設立準備の頃から身近な出来事として記憶に刻まれています。当時はファミリーコンピュータの全盛期。ゲームや漫画などコンテンツ産業全体にすごく勢いがあった時代です。父は仕事を家庭に持ち込む人ではありませんでしたが、常に仕事が楽しそうで、バブル崩壊を目の前にして右肩上がりで伸びていく熱気のようなものを肌で感じて育ちました。

ーー最初から家業に入ろうとは考えていなかったのでしょうか。

塚本由紀:
2000年には上場していましたし、家業として継ぐとは全く考えていませんでした。私は、幼少期から、ゲームのグラフィックが2Dから3Dへと進化していく過程をリアルタイムで経験し、デジタルメディアや表現の世界に強く惹かれていったのです。高校時代は、深夜の電話料金が定額になる「テレホーダイ」というサービスを利用して、夜な夜な父の部屋のパソコンでインターネットに接続していました。見よう見まねでHTMLを書いて自分のサイトをつくり、世界中の人とつながれることに夢中になっていたのです。その後、コンピュータと人が対話する際の表現に興味を持ち、大学ではインターフェースデザインを学び、卒業後はソシオメディア株式会社に入社しました。

ーーソシオメディアではどのようなお仕事をされていたのですか。

塚本由紀:
約5年間、大手メーカーのコーポレートサイトや業務システムのUI/UXデザイン、ユーザビリティコンサルティングに従事しました。システムとユーザーの間に立ち、ユーザーの要件を引き出してインタラクションデザインに落とし込み、ガイドラインとして標準化するといった業務です。まだそういったUXコンサルティングを手がける企業が少なかった時代に、多くの経験を積むことができました。

ーー充実した日々だったかと存じますが、その後、何か転機はありましたか。

塚本由紀:
2007年に父が倒れました。当時は仕事でも大きめの案件を任されるようになっており、なんとか介護と仕事を両立しようと頑張ったのですが、最終的には退職して介護に専念することになりました。ただ、完全に社会から切り離されてしまうのを避けるため、資産管理会社を通じて、外側からグループの電子書籍事業などに携わっていました。

ーー介護のご経験は、その後の経営への視点にどのような影響を与えたのでしょうか。

塚本由紀:
逃げずに目の前の状況と真剣に向き合うことと、リスクを正しく想定することの大切さを学びました。また、医療現場や在宅介護のリアルな課題に直面したことで、デジタル化が進む中で「リアルな人とデータをどう紐付け最適化していくか」という本質的な課題は、どの業界でも共通しているのだと気づくことができました。

上場廃止という決断 ボトムアップで生み出す「面白いこと」

ーーどのような経緯で貴社の経営へ本格的に関わられるようになったのですか。

塚本由紀:
2017年に社外取締役に就任したのち、2020年に取締役副社長として内部から経営に関わるようになります。入社時はちょうどコロナ禍の始まりで、社員がほとんど出社していない状況でした。そのため、まずは前任者から引き継ぐ形でリモートワークを見据えたオフィス改革や、押印のクラウド化などDXの推進から取り組みました。創業時から「どこにいても仕事ができる」というコンセプトは持っており、それを現代に合わせて実現した形です。

ーー5年後に上場廃止をされましたが、経営体制や組織における変化はありましたか。

塚本由紀:
出版業界全体が変革を迫られる中で、スピードを上げて大胆な改革を行う必要がありました。上場企業のガバナンスで得たことは大事にしつつ、今は意思決定のスピードを上げるべく、ホールディングスの経営体制はミニマムに絞っています。事業会社各社の課題解決や事業アイデアの実現がしやすい組織構造に切り替えつつあります。

ーー組織づくりにおいて、現在特に注力されていることは何ですか。

塚本由紀:
個人の自律性を尊重する組織文化の醸成です。トップダウンで全てを指示するのではなく、個々の社員が自律的に動き、つながることで新しい価値を生み出す仕組みをつくりたいと考えています。その一環として、社内から技術テーマ別にR&Dのアイデアを募るプロジェクトを複数開始しました。

ーーどのようなアイデアが集まっていますか。

塚本由紀:
たとえば、AIによる業務改善やコンテンツの再利用、3Dプリンターを使ってモノをつくってみるといったプロジェクトが動いています。中でもClaude等による業務改善はメンバーもだいぶ増えて活発です。スタッフから「これを使いたい」「この課題を解決したい」という声が上がり、彼らの提案を段階を経て事業化していく仕組みが整ってきました。

ーー経営理念に込められた思いをお聞かせください。

塚本由紀:
グループは12社、約700名の社員が在籍しています。IT、音楽、山岳自然、航空鉄道など多岐にわたる専門分野に特化した会社が集まり、出版だけでなく、ソリューション事業やプラットフォーム事業を展開しています。「面白いことを創造し、知恵と感動を共有する」ーー。専門ジャンル別の各社によって「面白いこと」の定義は異なりますが、入門者からプロフェッショナルまでの学びの循環と成長の喜びという根底の思いは共通しています。

広告モデルの課題と、ユーザー起点で再構築するメディアの価値

ーーデジタルメディアが直面している課題は何だとお考えですか。

塚本由紀:
ニュース媒体において、生成AIによる検索結果の要約(AIオーバービュー)が登場したことで、いわゆる「ゼロクリック問題」が発生し、コンテンツ事業者に収益が還元されにくい状況になりつつあります。また、現状の広告モデルを維持しようとするあまり、広告ばかりが表示されて閲覧すらままならないサイトも増えており、人間が嫌気がさしてしまうほどビジネスの施策でユーザーを煩わせているのが今のインターネットです。

ーーそうした状況に対し、どのような打開策を練られているのですか。

塚本由紀:
私がかつてUI/UXの世界で共感したのは、「コンピュータやインターネットは人間の作業を助ける道具であり、自分の身体の延長のように自由に使えるべきだ」という設計思想でした。現在はそこから更に進んでAIは人間のパートナーになりつつあり、コンテンツとAIの掛け合わせで人間の思考や仕事が格段に拡がるようになっています。よって、コンテンツは無料で閲覧できる広告モデルと、有料だがAI活用やコンテンツを生み出すコミュニティとつながる付加価値を得られる会員モデル(DtoC)の両方を提供しつつ最適化していくことに、今一番注力しています。

たとえば音楽の分野であれば、単に雑誌のバックナンバーを電子化してAIや自然言語検索で読めるようにするだけでなく、楽器を購入し、スタジオを予約して練習し、仲間とセッションして楽しさを分かち合う、というライフサイクルを通したすべてのタッチポイントに関わっていくことが、人やコミュニティの成長に欠かせないと考えています。

デジタルとリアルが交差する新たな体験価値の創出

ーーコミュニティの成長に向けて具体的に取り組まれていることは何ですか。

塚本由紀:
趣味や学習は自分一人だけでなく、仲間と共有したり切磋琢磨して得られるものがあるため、リアルの場との接点を大事にしています。音楽のライブイベントであれば、その日のセットリストとユーザーの名前を入れたTシャツを会場でカード決済し、後から自宅にお届けするといった、デジタルならではでできることをリアルの体験に付加する提供方法なども用意しています。デジタル技術も進化してますので、将来的にはスマートグラスを活用して山登りをARで体験するといった、多様な価値提供のアイデアが生まれてくるはずです。

ーー社外との協業や権利(ライツ)ビジネスについても教えてください。

塚本由紀:
版権部をグループライツビジネス部に拡大し、1つのコンテンツを多様な形式で展開していく体制を強化しました。出版社の編集部では思い切った企画ができない場合もあり、イベントプロデュースなどを手がける外部企業にライツ(版権)として委託することで、自社だけでは思いつかないような新しい売り出し方や体験を生み出せるのではないかと期待しています。

出版の枠を超える「多面的展開」と「デジタル/グローバル・ファースト」

ーー今後の事業展開について、どのようなビジョンを描かれていますか。

塚本由紀:
「多面的展開」と言っていますが、1つのコンテンツを文字、映像、音声、言語を問わず、あらゆる形態でユーザーに届けられるようにしたいと考えています。これまでは紙の出版が起点でしたが、デジタル・ファーストで複数形態に落とし込んでいくことで、今後はイベントやセミナーも含めてコンテンツ事業全体の売上高における紙の比率は4割程度まで下げていく方針です。

ーーデジタル化や新しい提供形態について、具体的な取り組みを教えてください。

塚本由紀:
出版構造改革の要として、まずは業務フローやマスタデータの標準化、製品仕様の統一を進めています。これにより、デジタル印刷を活用した小ロット生産が可能になります。また、在庫を持たないオンデマンド販売にも注力しており、たとえばコンテンツを用いたアパレル商品などの無在庫販売も既に軌道に乗っています。ものによっては、受注生産型でより豪華な仕様にしたり、本に関しても通常版と特装版とに分けて提供することで、より細かなユーザーニーズに対応できるようになってきています。

ーーテクノロジーの活用という点では、AIの実装も進められているのでしょうか。

塚本由紀:
AIによる業務改善はもちろんですが、ストックされたコンテンツを特定のトピックに特化したプライベートAI(RAG)として、ユーザーに価値を提供する新たなサービス開発も試みています。IT分野で創業したメディア企業としての側面を強化し、単なるサブスクリプションを超えた、新しい学びの価値を提供したいと考えています。

ーー海外展開についてはいかがでしょうか。

塚本由紀:
日本のコンテンツへのニーズは海外でも高まっており、これまでは日本向けにつくったものを後から翻訳していましたが、海外ニーズが高いコンテンツであれば、日本市場を待たずに先に海外で展開するといった、グローバル・ファーストの考え方があってもよいと思っています。AI翻訳の進化により言語の壁は低くなっていますし、日本の出版業界の取り組みとしても、デジタル印刷を活用して現地での印刷・流通も可能になりつつあります。

ーー最後に、今後の貴社のあり方についてお話いただけますか。

塚本由紀:
弊社は、特定の分野において深掘りができる専門的なコンテンツとコミュニティを有しています。今後は、toCだけでなく、すでにIT分野で取り組んでいるtoBのビジネスモデルをサイバーセキュリティや宇宙ビジネスなどの成長分野に拡大するとともに、趣味領域についても媒体力を活かしたtoBのソリューションを広く提供していきたいと考えています。これまでのやり方に縛られず、新しい市場と価値を切り拓いていく仲間と共に、次の時代をつくっていきたいです。

編集後記

UI/UXデザインの最前線から、メディアグループの舵取りへ。塚本氏のキャリアは一見すると異色に思える。しかし、ユーザーとシステムをつなぐインタラクションを追求してきた経験は、コンテンツと読者を最適な形で結びつける現在の「DtoC」や「多面的展開」の構想へと確実につながっているのだ。上場廃止という大きな決断を下し、スピード感を持って出版の構造改革やAI実装を進める姿勢からは、変化を恐れない強い覚悟が感じられた。「面白いことを創造し、知恵と感動を共有する」という理念のもと、自律した個性が交わり合い、日本から世界へと新しい価値を発信していく。インプレスグループの次なる飛躍が楽しみだ。

塚本由紀/1980年生まれ。2004年ソシオメディア株式会社に入社。2011年より有限会社T&Co.取締役を務める。2017年から株式会社インプレスホールディングス取締役としてグループのコーポレートコミュニケーション、コンプライアンス及びファシリティ・ICT体制の維持・発展等を担当。2025年7月、株式会社インプレスホールディングス代表取締役に就任。