
「健康」から「音楽」へ。人々の生活を豊かにするという使命を胸に、老舗楽譜問屋の変革に挑む経営者がいる。株式会社松沢書店の代表取締役社長、松澤秀紀氏だ。同氏は前職の飲料メーカー本社で長年にわたり、システム部門や事業改善、組織活性化に携わった後、家業へと帰還した。従来の卸売業という枠を越え、消費者へ直接アプローチする基盤の構築など、新たなビジネスモデルの確立を推し進める松澤氏の手腕を探った。
前職の経験が活きる組織変革
ーーまずは、貴社に入社されるまでの経緯についてお聞かせください。
松澤秀紀:
当初は会社を継ぐつもりはなく、大学卒業後は外部企業の飲料メーカーに入社し、そこでキャリアを築く考えでした。前職ではシステム部門を皮切りに、化粧品部門、直販部門などを経験し、全国の販売会社の事業改善や組織風土の改革など、多岐にわたる業務に携わってきました。
その後改めて、二代目である父が築いた弊社の基盤やその背中を改めて見つめ直したときに、自身の経験を活かせる可能性を感じて入社を決意したのです。家業に入り、専務を経て2025年10月に社長に就任しました。
ーー前職での経験は現在の経営にどのように生きていますか?
松澤秀紀:
前職は「健康で楽しい生活づくりに貢献する」という素晴らしい理念を持つ会社でした。一方、弊社の理念は「音楽の楽しさを普及する」ことです。人の生活を豊かにするという本質は同じであり、人生を懸けて取り組む価値があると感じました。また、前職では全国のさまざまな販売会社に入り込み、事業改善や組織活性化といった経営支援に、現場の皆さんと一緒に取り組んできました。その中で強く感じたのは、組織の課題や風土は会社ごとに大きく異なり、それらを大きく左右しているのは、トップの考え方やリーダーのマネジメントであるということです。組織のベクトルをそろえることの難しさと重要性、そしてそれが実現したときに発揮される大きな力。こうした経験から得た学びは、現在の経営における大きな軸となっています。
エンドユーザー視点と「仕事を楽しむ」考え方

ーー入社当時、会社にはどのような課題を感じていましたか?
松澤秀紀:
私が入社したのはコロナ禍で売上高が著しく低迷していた時期です。会議でも「店舗に人が来ない」「外部環境が厳しい」と、原因を外側に求める空気が漂っており、強い違和感を覚えました。また、当時の弊社には「楽器店に卸して終わり」という空気を感じていました。しかし、私たちの商材は返品可能な制度の上にあります。最終的に店頭でお客様に買っていただけなければ、本質的な売上高にはつながりません。この発想を転換しない限り、今後の発展は難しいと危機感を抱きました。
ーー具体的には、どのような改革に着手されたのですか?
松澤秀紀:
大きく分けて、事業面と組織面の2つの改革に着手しました。
まず事業面では、お客様に直接アプローチするために情報発信サイト「楽譜ナビPLUS」を立ち上げました。単に商品を卸すだけでなく、自ら商品の魅力を発信して消費者が「欲しい」と思う理由を創り出す、BtoBtoCモデルの構築を目指したのです。実際にキャンペーンを実施した際には、楽譜や楽器店への予想を超える熱いメッセージが多数寄せられ、お客様の声に直接向き合うことの重要性を肌で感じました。
そして組織面では、社内の意識改革を図っています。私は、『どんな仕事も楽しくなる3つの物語』という本を書かれている福島正伸先生の講演で聞いた「人生の大半を占める仕事が楽しくなければもったいない」という言葉をとても大切にしています。まずは社長である私自身が率先して新しいことに挑戦し、仕事を楽しむ姿を見せる。そうすることで、組織全体を前向きに変革していきたいと考えています。
DXと物流を武器に業界全体を支援するプラットフォーマーへ
ーー今後の事業展開において、注力されている取り組みは何ですか?
松澤秀紀:
単なる卸売業という役割を超え、デジタル技術を用いながら、より現場に寄り添った価値提供をしていくことです。弊社では、ITを「三方よし」を実現するための基盤と捉えています。これまで培ってきた卸としての現場との接点を活かし、今年サービスを開始した店舗向けアプリ「さぽー太」では、バーチャル棚表示なども活用しながら、誰でも直感的かつ視覚的に楽しみながらデータを活用できる売り場運営の仕組みを提供しています。一方で、「楽譜ナビPLUS」では、楽譜や音楽を楽しむ方に向けた情報サイトとして、楽譜やイベント情報の発信、店舗在庫の可視化、店舗連動キャンペーンの実施を通じて、来店のきっかけづくりや売り場の活性化に取り組んでいます。
こうした取り組みを通じて、卸だからこそ集まる現場やお客様の声をつなぎ、業界全体に循環させる「情報の流通」を実現していきたいと考えています。これまでの「商品を流通させる役割」に加え、情報やサービスを通じて、店舗の魅力やお客様との接点を高めていくことが、これからの卸の価値だと考えています。
今後も、売り場の活性化や新たな音楽との出会いを生み出せるような取り組みを、さらに強化していきたいです。
ーー物流面での進化についてはどのようにお考えですか?
松澤秀紀:
物流面での進化については、消費者の購買行動の変化にどう対応していくかが重要だと考えています。店頭販売に加え、ECなど購買チャネルが多様化する中で、弊社では商品の単品管理ができている強みを活かし、仕入れ・在庫・物流を一体で最適化する取り組みを進めています。
取り組みの一つとしては、当社倉庫からエンドユーザーへ直接商品をお届けする発送代行サービスを展開しており、店舗様は在庫や出荷業務の負担を軽減しながら、接客や販売に専念することが可能になります。物流も単なる配送機能ではなく、販売機会を広げるための重要な仕組みとして、今後さらに進化させていきたいと考えています。
変化を恐れず共に「第三の創業期」を楽しむ
ーーこれからどのような組織をつくっていきたいとお考えですか?
松澤秀紀:
現在はまさに過渡期であり、市場環境は厳しい面もありますが、だからこそ新しいことに挑戦できる面白さがあると感じています。その中で社内では、社員同士で成果を称え合い、投票し合う全社員参加型の表彰制度や、従業員アンケートの実施など、率直な意見を吸い上げる場を設け、風通しの良いオープンな環境づくりに努めています。私たちの仕事は、まさに「音楽の楽しさ」を届ける仕事です。お客様にわくわくを届けるためには、まず私たち自身が仕事を楽しむことがとても大切だと考えています。そのためにも、社員一人ひとりが前向きにチャレンジし、アイデアを積極的に発信していく、そんな行動が自然と生まれる組織でありたいと思っています。
そして、そうした前向きな姿勢は、お客様やお取引先様にも必ず伝わるものだと考えています。「面白い会社だな」「一緒に何かやってみたい」と感じていただけるような関係性を広げていくことも、組織づくりの重要な一つです。これからも、前を向いて挑戦し続ける仲間と、思いに共感してくださるお取引先の皆様とともに、音楽の楽しさを広げていくことに貢献していきたいと考えています。
編集後記
「売上高は、お客様に楽しみや喜びを提供し、真摯に向き合った結果でしかない」。老舗問屋の舵取りを担う松澤氏の言葉には、確かな説得力がある。業界の慣習にとらわれず、オペレーションのシステム化による物流の最適化や発送代行サービスの展開など、次々と打ち出す施策は極めて合理的だ。テクノロジーによる効率化と、「仕事を楽しむ」という人間味あふれる情熱を融合させ、音楽業界全体を牽引する基盤構築企業へと進化していく同社の飛躍に注目したい。

松澤秀紀/1982年、東京都生まれ。2006年、上智大学理工学部卒業後、株式会社ヤクルト本社に入社。システム部門、化粧品部門、直販部門など幅広い分野で経験を積み、2022年に株式会社松沢書店に専務取締役として入社。2025年に代表取締役社長に就任。社内改革や新たな企業価値の創造に取り組む。