
明治6年創業、京都の繁華街に店を構える老舗すき焼き店「三嶋亭」。牛肉を食す文化が本格的に始まった時代から続く同店を牽引するのは、五代目主人の三嶌太郎氏である。15歳から家業を手伝い始めた同氏だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。伝統の「薄く切る技術」や和の精神、ハレの日のおもてなしを大切にしながら、40代で日本料理や茶道、華道を学び、懐石風のコースを導入するなど改革を進めてきた。さらには科学的分析のために大学院で霜降り肉を研究し、食糧危機やリスクを見据えるなど、次々と独自の行動を起こしている。激動の時代において、老舗の暖簾(のれん)をいかに守り、進化させていくのか。その根底にある行動と未来への構想に迫った。
異国文化の衝撃と大病を経て見つめ直した「己の使命」
ーーまずは、これまでのご経歴についてお聞かせください。
三嶌太郎:
高校1年の夏休み、15歳から家業を手伝い始めました。仕事自体は面白いと感じていたのですが、最大の転機となったのは、20代でブラジルへ渡り「自分がどれだけ恵まれた環境にいたか」を痛感したことです。
当時、厳格な社会構造に息苦しさを覚え、現状から逃れるように遠く離れた異国へ渡りました。しかし、そこで強烈な文化の違いに衝撃を受けました。貧しい環境下で、その日を生きるために子どもたちが必死に働いていたのです。その姿を目の当たりにし、自分の考えの甘さを恥じると同時に、日本の豊かさや恵まれた環境に気づかされました。この経験が、現在の歩みを支える大きな糧となっています。
ーーそこから、家業を継ぐと決意されたきっかけは何だったのですか。
三嶌太郎:
父が倒れたこと、そして私自身が大病を患ったことの二つが大きなきっかけです。10代から現場での仕事へ入り、当時の職長に頭をさげて一から技術を習得し、クレーム対応係も自らいたし、お客様からの厳しいご指摘にも自ら対応しました。
31歳のとき、出張先で父が目の前で倒れました。一命は取り留めたものの、その姿に直面して「自分が家業を守る」と覚悟を決めたのです。
その3年後の34歳のとき父が死去、さらに4年後38歳のとき、今度は私自身が大病で倒れてしまったのです。退院後も数年間は苦しい日々が続きました。しかし、その空白の時間があったからこそ、「なぜ自分は京都のすき焼き店に生まれたのか」と、自らの使命を深く見つめ直すことができたのです。
和の精神を宿す鍋と40代からの学びが生んだ懐石風コース

ーー自らの使命を見つめ直す中で、すき焼きのどのような価値に気づかれたのですか。
三嶌太郎:
お互いを思いやる「和の精神」が、すき焼きの鍋には込められているという点です。本来、一つの鍋を皆で分け合って食べる際に、自分の分を残しつつ他者の分も残します。また、牛肉は昔から特別な「ハレの日」を彩るごちそうです。若い頃に訪れた方が、後にご家族を連れて思い出の場所として再訪していただくこともあります。お客様の人生の節目に寄り添うためには、料理だけでなく空間や空気感を含めたプロフェッショナルな準備と「おもてなし」が不可欠だと考えています。
ーーそのおもてなしを進化させるために取り組んだことをお聞かせください。
三嶌太郎:
40代から日本料理や茶道、華道を一から学び直し、懐石を元にすき焼きコースを導入しました。歴史をひも解くと、伝統の「薄く切る技術」は日本料理に由来することに気がついたのです。そこで専門家の門をたたき、数年かけて日本料理を習得しました。同時に料理人としての感性を磨くために茶道と華道も始めました。そこで培った季節感や均衡の美は、日々の料理に直結しています。先代から受け継いだ暖簾は、ただ守るだけでは色あせてしまいます。伝統を大切にしながらも、時代に合わせて自らの手で磨き続けることが私の役割です。
科学的な視点と食糧危機を見据えた未来への布石
ーー他にどのようなことを学んだのでしょうか。
三嶌太郎:
現場の感覚だけでなく、伝統技術の裏側にある科学的な根拠を解明するため、実は50代になってから大学院へ進学しました。当店には冷蔵庫のない時代から牛肉を熟成させる技術が存在します。その仕組みを深く知るべく、7年前に大学院へ入り、週に3回通って科学的分析のために霜降り肉と赤身肉の美味しさを研究しました。実践で培った経験と科学的な理論が結びつく過程は非常に刺激的であり、細胞の働きなどを通じて多角的な視点を得ることができました。
ーー研究を通じて、これからの食に対するどのような課題が見えてきましたか。
三嶌太郎:
人口増加に伴う「食糧危機」という大きな課題です。現在、霜降り肉を生産するには、大量の輸入飼料を必要とします。また、かつて数年かけて育てられていた牛は、今や半分の期間で成長するように変化してきています。過去に業界全体を揺るがす問題が起きた際、当店も売上高が激減し、非常に厳しい時期を経験しました。だからこそ、素材にまつわる未来のリスクを常に見据えておく必要があります。万が一牛肉が扱えなくなる事態に陥ったとしても、業態を変えてでも「三嶋亭」の暖簾を残す。それほどの覚悟を持っています。
食の総合ビル構想とこれからの三嶋亭をつくる仲間

ーー新しい事業展開と、今後の構想についてお聞かせいただけますか。
三嶌太郎:
現在、すき焼きとは異なる肉の魅力を伝えるため、8年前から炭焼きステーキ店「翁樹庵(おうじゅあん)」を展開しています。西洋料理の技法を取り入れた完全予約制の店舗です。さらに将来的な構想として、近隣の土地を活用し、お惣菜や洋食などを提供する「食の総合ビル」や、第二のブランドを展開する計画も持っています。
ーーそうした構想を目指す中で、どのような人材を求めていますか。
三嶌太郎:
和装でお客様をお迎えする接客担当と、高度な調理技術を持つ料理人の2つの役職を求めています。接客は、対話を通じて特別な空間をつくり上げる非常にやりがいのある仕事です。料理人に関しては国籍を問わず、日本の方、外国の方、料理に興味ある方に活躍してほしいです。
今後はデジタル技術の導入など、設備面の充実も進めていく予定です。私たちの「おもてなしの精神」に共感し、ともに三嶋亭の暖簾を磨き上げてくれる方をお待ちしております。
編集後記
150年以上続く老舗の暖簾を守ることは、並大抵のプレッシャーではないだろう。しかし、三嶌氏のお話を伺い、伝統とはただ過去のやり方を踏襲するのではなく、時代に合わせて磨き続け、進化させることなのだと深く感銘を受けた。大病などの苦難を乗り越え、ご自身の使命を再認識したからこそ、その言葉には重みと熱意が宿る。科学的アプローチや食糧危機を見据えた次なる一手など、現状に満足せず挑戦を続ける姿勢は、多くの人に勇気を与えるに違いない。伝統と革新を融合させ、次世代の「おもてなし」を創造していく同社のさらなる挑戦はどこまでも続く。

三嶌太郎/1965年(早生まれ)、京都府生まれ。15歳の時より「三嶋亭」にて現場で仕入れなどの手伝いを始める。1987年3月に同志社大学商学部を卒業後、東京のホテル勤務を経て家業に戻る。27歳の頃、人生の見つめ直しと自分探しのためにブラジルへ渡航。31歳で父が倒れたことを機に家業を継ぐ決意を固め、34歳の時に父の死去に伴い、五代目代表取締役社長に就任する。就任直後のBSE問題やリーマンショックなどを経験し、自身も38歳で大病を患う。しかし、闘病後の空白の期間に自らの使命を深く見つめ直したことをきっかけに、40歳を過ぎてから日本料理を一から学び直し、三嶋亭の料理をさらに進化させた。現在も自ら厨房に立ち、調理と後進の指導にあたっている。54歳で龍谷大学大学院に入学し、2021年3月に同大学院農学研究科にて食農科学修士学位を取得した。