手間暇かけて焼き上げたせんべいをあえて割った「吾作割れせん」――40年を超えるロングセラー商品が誕生したきっかけは、「割れたところが美味しい」という社員の一声だった。
吾作割れせんは、製造過程で割れたせんべいを安価で販売する“こわれせん”とは異なる。丸く焼いた煎餅をわざわざ手間をかけて割り、そこに秘伝のたれをしみ込ませて味をつけてゆくものだ。「なぜわざわざ割るのか」「もったいない」などの声が挙がる中、どのようにして商品を大ヒットに導いたのか。宮坂米菓株式会社の代表取締役社長である宮坂博文氏に、商品への思いや今後の展望などについて話を伺った。
ものづくりが好きだった幼少期。機械が好きで工場に入り浸った
――入社する前のご経歴と、入社後にどのようなお仕事をされていたのかお伺いします。宮坂米菓は1910年創業の老舗ですが、小さい頃から後を継ごうと考えておられたのですか?
宮坂博文:
子どもの頃はせんべい屋の後を継ぐというより、機械に興味がありました。ものをつくることが好きで、工場の中に入って手伝っているうちに、いつの間にかおせんべいのつくり方を覚えていましたね。
中央大学理工学部を卒業して宮坂米菓の工場で働きながら、「百年も続くせんべい屋を継がないわけにもいかないよな、親父に悪いよな」っていう考えはずっと頭の中にありました。
意識し始めたのは45歳くらいの頃ですかね。15年ほど工場で働いた後、営業も15年経験しました。その途中、匠屋本店という通販の子会社を立ち上げて、匠屋本店の社長に就任しました。
問屋さんに営業に行くと「少しでも安く」と、低価格を求められてしまいます。本当は良い原料で良いおせんべいをつくりたくても、価格が高くなると仕入れてもらえない。問屋を介さずに、自分たちで直接お客様のもとへ商品を届けたいという思いがずっとあって、それを実現したのが匠屋本店です。
ただ、問屋さんからおせんべいを届けるという昔からの方法がやっぱり根幹にあるので、スーパーに置いてもらう商品として「吾作」という少し高価なおせんべいを新たにつくりました。
「吾作割れせん」誕生秘話
――「吾作割れせん」の誕生秘話について教えてください。
宮坂博文:
もともとはこっちから買ってくださいとお願いするのではなく、「買わせてくださいって言ってもらえるような商品を作りたい」という思いがあって、150円のおせんべいが主流の時代に、300円という価格で販売できる「吾作」という商品をつくりました。営業の社員は「これは高くて売れないですよ」と最初は渋々でしたが、実際に営業を開始してみるとこれが非常に良く売れました。
吾作が順調に売れていく中で、何気なく社員と話をしていたところ、「この商品はむしろ割れている部分が美味しいんだよね」っていう声があり、じゃあそういうのをつくろうじゃないかって。
吾作割れせんは、製造過程で割れた“こわれせん”とは異なります。わざと機械で割って、味を染み込ませています。おせんべいを割るための機械も社員たちと一緒につくりました。そしたら飛ぶように売れたんです。
当時は営業社員が不足していたのですが、それでも商品はじゃんじゃん売れる。ちょっと待てよ、これ営業の経費を全部原料につぎ込んだらどうだろうと思い立ってね。他社の商品より原料が良くなるわけだから絶対に美味しくなるだろうと。
世に無い商品ということで、「割れたおせんべいが売れるのか?」と不安の声もありましたが、一部の問屋さんやスーパーで扱ってくれ、思った通り売れ行きは良くて、そこから、問屋さんの中で「宮坂の割れせんが売れるんです」って話題になって、だんだん広まっていきました。最初は恐る恐る置いてくれたのだと思いますが、吾作の実績があるから、受け入れてもらえたのでしょうね。
他社にも同じような商品を真似されましたけど、うちは営業経費を全部原料費に回しているから、やっぱり味が違います。今も営業は全然していないんですよ。
――原料にはどのような違いがあるのですか?
宮坂博文:
お米の等級が違います。通常、おせんべいには“クズ米”を使用しますが、吾作には良いお米を使用しています。クズ米と違い、良いお米でおせんべいをつくるとやっぱり美味しい。
今から40年ぐらい前、当時は「減反政策」で農家は自由にお米を生産できなくなって、埼玉県では弊社を含めた3社で農協から原料米を仕入れることになった背景があります。原料が違うと美味しくなることを知っていたから、営業にかかる経費を原料に回して「吾作割れせん」をつくろうと決めたのです。
水害からの回復
――社長に就任されてから大きな水害がありましたね。どのように乗り越えてこられたのかをお聞かせください。
宮坂博文:
2019年の台風19号での水害は本当に大変な被害でした。越辺(おっぺ)川が氾濫して、商品の在庫だけでなく、機械まで全てダメになってしまいました。
機械がダメになると商品も作れないし、在庫もない状態になりますので、その間の売上が全くなくなってしまいます。そうするとスーパーさんも棚を空けておく訳にはいかないから、他社の商品を置かざるを得なくなりますので、本当に深刻な影響を受けました。
早期に再開しなければなりませんでしたので、社員みんなでモーターやギア、ベルトなど機械部品の中でも自分たちで取り替えられるところは修理していきました。コンピューターで動いている機械は水に浸かって自分たちでは修理できないので専門業者に依頼しましたが、自分たちで修理できる部分は修理し、動かせるところだけでも動かして、少しでも商品を製造できるような体制に戻していきました。
また、地域のスーパーが応援してくれたことが大きかったですね。「宮坂米菓再開しました」という大きなパネルを出してくれたり、特売をしてくれたり、写真を載せてくれたりしてね。実際にそれがきっかけで新しいお取引が始まったスーパーなんかもありました。
おかげさまで、通常だったら回復までに数年かかるところ、1年で黒字に戻すことができました。
大切にしている価値観
――最後になりますが、経営者として大切にしている価値観などがあれば教えてください。
宮坂博文:
社員のみんなが楽しく仕事して、生活できるようにというのは常に考えています。
聖徳太子の「和を以て貴しとなす」というのが僕の座右の銘です。自分独りで引っ張っていけるような能力もないし、できる人に協力してもらうのが一番だから。
売れる商品をつくって、みんなで売って、みんなが生計を立てていけるようにしたい。みんなでつくった商品で、お客様に喜んでもらうのが一番です。長く愛される商品をこれからも届けていきたいですね。
編集後記
宮坂社長と社員の方が一丸となって商品に向き合う姿勢が印象的な宮坂米菓。工場での経験、営業の経験があるからこそ、社員の一声をヒントに「吾作割れせん」をつくることができたのだろう。
おせんべいを買い求めるお客様は小さなお子様からお年寄りの方まで、年齢層は幅広い。宮坂米菓は改良を重ねながら、これからも多くの方に愛されるおせんべいを届けてくれるだろう。
宮坂博文(みやさか・ひろふみ)/1945年生まれ。中央大学理工学部卒業後、宮坂米菓へ就職。工場でせんべいづくりの工程や機械について15年学んだのち、営業職に従事。通販事業として匠屋本店を立ち上げ、社長に就任。1990年3月に4代目として宮坂米菓社長に就任。