求人情報を見るとよく目にする「風通しのよさ」は会社の規模が大きいほど、組織が複雑化して難しくなる。
日本一・日本最大と謳うほどまでにお好み焼きのフランチャイズ展開に成功した株式会社道とん堀には、ここに至るまでの間、様々な苦難があったという。
代表取締役の稲場裕幸氏はどのようにして風を通し、社員の満足度を高めながら、海外にまで展開することができたのか、話をうかがった。
順風満帆なスタートではなかったフランチャイズ事業
ーー貴社の成り立ちを教えてください。
稲場裕幸:
まず、お好み焼きとしたのは、母がすでにお好み焼きの店舗を2店持っていて、利益率が良かったことを数字で見ていたからです。ファミリーレストランに憧れて育った世代だったので、郊外型のファミリーレストランを目指しました。
老舗チェーンのような伝統の味や焼き方にこだわりがあると、職人を育てないといけません。全国展開するには、お客さんに焼いてもらうスタイルのお好み焼きで、郊外型ファミリーレストランのように広げていこうとイメージしていました。
当時20代で資金的な余裕もない中でしたので、「フランチャイズの仕組みをもって勝負していこう」と、「日本一のお好み焼きのチェーン店になるんだ」との決意を持って事業を始めました。
会社をつくるにあたって、フランチャイズで展開していた大阪と広島のお好み焼きの会社を訪ねて、まずはお好み焼きのフランチャイズというものを勉強しました。他にも関東にある蕎麦やラーメンのチェーン店の説明を聞きました。
ーー始めてから特に苦労したと感じたことはありますか。
稲場裕幸:
最初は場所と人を探すのに苦労しました。まずは空き地を見つけては、役所で所有者を確認して、「直接土地を貸してください」「ここで加盟してやりませんか」と営業していきました。
ところが、当時はフランチャイズといってもピンときませんし、お好み焼きもピンときません。念入りに調査をしたうえで営業していましたが、ほとんどダメでした。
そのような状況で、どうしようかと途方に暮れていた時に、当時よく相談に乗ってくれていた信用金庫さんから「社長の思っているお店を作ったらどうだろうか」とアドバイス頂き、お金を貸してもらえることになりました。自分のイメージした通りのお店を武蔵村山で1店舗オープンしたところ、それが大当たりしたのです。
それから1年に1店舗ずつ出店し直営店が増えていきました。一方で、上手くいっていなかったフランチャイズからは遠ざかっていたのですが、ある時、「フランチャイズに加盟して事業をしたい」という申し出を受けて、結果的にここで初月の売り上げ1,300万円を出してフランチャイズが初めて成功しました。ですが、フランチャイズが広がるまでには4年を要しました。
加盟店との溝を埋めるコロナショック
ーー飲食店経営は特にコロナショックによる影響を受けたかと思いますがいかがでしたか。
稲場裕幸:
コロナショックによって、客数が激変しました。2023年5月以降は順調で、売り上げはほぼ戻りましたが、客数は1割弱が戻ってきていません。
ただ、悪い話ばかりでもありませんでした。フランチャイズはまず弊社で場所を借りて加盟店に転貸するわけですが、1番多い時で300店舗ありました。しかし経営が上手くいかずに破産する店舗もあり、そうなると、弊社が引き継ぐ必要が出てきます。
そういった店舗が増えていくということは、収益性の低い赤字店舗の直営店が増えていくということなので、他の加盟店からすると「なぜ収益性の低い直営店の指示を聞かなければならないのか?独自でやった方がうまくいく」と指摘されるようになってしまいます。お恥ずかしい話、「直営店vs加盟店」という構図ができてしまい、溝が深いままコロナ禍に突入してしまいました。
ですが、このコロナショックのおかげで立ち止まって考える時間ができたのです。加盟店をしっかり守っていくことが本部のあるべき姿だと、直営店は加盟店のためにあるのだと思い直すことができるようになりました。
ーーその後はどのような対応をされたのでしょうか。
稲場裕幸:
まずは、破産して引き継いだ加盟社の店舗の立て直しに動きました。引継ぎ店舗の課題を分析し、店舗ごとに対策を講じていき、引き継ぐ前の利益を大幅に上回るようになりました。一方、既存の加盟店の指導に関しては、担当SVが月1回ほど加盟店を回り、形式張った報告のみで改善に関する話は限定的という状態でした。
そこで、引き継いだ加盟店舗の立て直しで得た、数多くの検証データを活かすために、直営店で使用している「店舗カルテ」という可視化シートを既存の加盟店でも新たに採用しました。各経営者の情報や 店舗の状態・状況などをデータ化し、今1番の問題は何かを洗い出したことで、改善に導くことができました。
またスーパーバイザーを3分の2くらいは入れ替えをして、教育を最初からやり直し、経営者と話ができるようにトレーニングを行いました。今の中心メンバーはこの時の新しいメンバーです。
あとは、店舗の改装です。20年以上経っているお店が多かったので、コロナショック後でしたが全店舗を改装することに決めました。経営者ともお互いちゃんと言い合えるような関係を作って、ここ1年ちょっとで40店舗くらい改装しました。中には、改装前の140%くらいの売り上げを出している店舗もあります。
社内だけではない!さらに広い海外展開を見据えた改革の時は今
ーー今後の展望をお聞かせください。
稲場裕幸:
守るものを守るためにはやはり経済的にもう少しパワーを持たないといけないと思っているので、少しスタンスを変えて会社を強くしたいと思っています。会社の体質も見ていますが、思っても動かない人より、口に出して動いて実行し、自ら発信できて柔軟性がある人、それから個性を大切にしている人を評価していきたいです。
新しく入ってきた人たちも評価されないと気持ちが離れて辞めていってしまうので、会社がもう少し先を見て、仕事を面白いと思えたり、やりたいことをすくい上げたりして従業員を伸ばしていけるようにしていかないといけないと思っています。20年以上前に作った労務規定などが基盤になっているので、これらも見直して私たちのマインドを変えていく計画です。
そして、先日訪れたフィリピンで、子どもたちがみんな楽しそうにお好み焼きを焼いて食べる姿を見て、海外の子どもたちにもお好み焼きをもっと知ってもらいたいと思いました。たとえば、宗教上の理由で食べ物の制限がある地域でも「ハラールのお好み焼き」とか、各地の子どもたちに日本のお好み焼き文化を少しでも分かってもらえたら良いな、と考えています。
実際に動いている話ですが、上手くいけばマレーシアで新たに出店が果たせそうです。そのために現在、食品工場で冷凍のお好み焼きを作って海外諸国に輸出していく計画を立てています。何年かに一度は、改革の時期が来るものですが、まさに今がその時だと思っています。
編集後記
直営店でもフランチャイズ店でも分け隔てなく奔走し奮闘する稲場社長。
会社のテーマとして掲げている「鉄板コミュニケーション」は、お客さんだけではなく加盟店との間にもあった。
「日本文化としてのお好み焼きを海外にも届けたい」と使命に燃える稲場社長の躍進は、海外でも目が離せない。
稲場裕幸(いなば・ひろゆき)/1964年東京都生まれ。お好み焼きのフランチャイズ展開を目指し1990年に「道とん堀」を設立。店舗数日本一・日本最大のお好み焼きチェーンとなり、2010年に海外進出を果たす。