和歌山県有田市に本社工場を置く日用品メーカー、ライオンケミカル株式会社。明治時代創業の老舗でありながら、時代に求められる新製品を生み出し続けている。会社の歩みとこれからについて、代表取締役社長の田中源悟氏に話をうかがった。
幾多の困難を乗り越えて、総合日用品メーカーへ
ーー貴社の歴史と事業内容を教えてください。
田中源悟:
ライオンケミカルは1885年にノミ取り粉(殺虫剤)の製造業者としてスタートしました。1962年に当時のトレードマークだったライオンにちなみ「ライオンかとり株式会社」へと社名を変更し、株式を大阪証券取引所第二部へ上場しています。その後、1973年にライオン歯磨株式会社(現LION)と業務提携したのち同社の子会社になり、1991年以降は米・ジョンソンの子会社として製造を請け負っていました。
現在は独立し、OEM製品から自社ブランドまで展開する日用品メーカーとして、蚊取り線香や消臭・除菌剤、各種洗浄剤、入浴剤といった日用品の開発・製造・販売を行っています。
製品の中身から容器まで、一貫して製造できることは弊社の大きな特徴です。大手のNB(ナショナルブランド)と弊社のPB(プライベートブランド)を比較した際に、「違和感を感じさせない」というコンセプトもあります。劣化版のPBではなく、品質やパッケージの面で大手企業の製品にプラスアルファの機能をつけた商品を作り続けています。
ーー田中社長のご経歴を聞かせてください。
田中源悟:
僕は1999年にジョンソンケミカル株式会社(現ライオンケミカル株式会社)の営業部長として入社しました。ですがそれは、大手企業の子会社となった老舗企業を独立・再生させるためでもありました。当時のジョンソンケミカルは経営不振による混乱の中で上層部が機能していない状態でしたが、当時代表取締役を務めていた別会社の営業部の社員をジョンソンケミカルの社員に登用し、営業面から立て直しを図りました。
2001年には、元の「ライオンかとり」を改めて社名に取り入れ、ライオンケミカル株式会社として再スタートしました。それからは業績が向上し、ゼロだった売上が20数年で100億円に達しました。
日本初の屋外用蚊取り線香を開発!ものづくりに挑戦する理由
ーーライオンケミカルで行った業績改善について教えてください。
田中源悟:
新工場を新設したほか、自ら機械を開発したこともあります。僕はものづくりが好きなタイプなので、新しい分野の製品にもチャレンジしました。今まで培ってきたノウハウを活かし、厚生労働省が日本で初めて効果を認めた「屋外対応型の蚊取り線香」や、燃焼後も蚊よけ効果が残存する蚊取り線香など、長年愛されてきた日本の文化ともいえる蚊取り線香を時代のニーズに合わせてバージョンアップさせてきました。
「会社にはにぎわいが必要」と考え、いろいろなアイディアや能力を持った人が集まる場所であろうと努めています。和歌山を離れていた優秀な方々が故郷に戻ってきた際、その方々がやりがいをもってスキルを発揮できる雇用の受け皿となる一企業でありたいと考えています。
強固な組織を作りたい――個々の意志を尊重する教育方針
ーー今後の展望をお聞かせください。
田中源悟:
高齢になっても働き続けたい人が、それまでの経験を活かせる場所という意味で「足腰が立たなくなるまで働ける環境づくり」をしていきます。また、働く人がやりがいを持ち、自己実現できる会社でありたいと思っています。
ーー独自の教育方針があるのでしょうか。
田中源悟:
従業員一人ひとりが「会社を良くすれば自分の人生も良くなる」と思える。そんな会社であるべきだと考えています。
僕は幕末志士・吉田松陰の「志定まれば、気盛んなり(人は目標が定まれば自然にやる気を出す)」という言葉が大好きで、社員には「何事も覚悟を持って行動しなさい」と伝えています。
また、従業員各々が主役になるべきであるという気持ちをこめて「店主たれ」と掲げています。経営者としての使命は、人それぞれの能力を発揮できる環境をつくることです。社員を導いた結果が正しければ会社も成長していくでしょう。
編集後記
強い意志を持ち仕事に取り組める人を育て上げなければ、どんなに成功した会社でも未来はない。会社を支える従業員について、親しみを込めて「うちの子たち」と呼ぶ田中社長は愛にあふれていた。「強い組織は強い個から」という考えと、誠実なものづくりから生まれる製品が私たちの生活を今後もより便利にしてくれるだろう。
田中源悟/1967年、和歌山県生まれ。日本大学を卒業。1990年にインターステートパッケージングコーポ(米国)へ入社。1994年、株式会社リベロへ入社。1年後に代表取締役社長へ就任。1999年にジョンソンケミカル株式会社(現ライオンケミカル株式会社)取締役営業部長、2003年に代表取締役専務、2008年に代表取締役社長へ就任。