※本ページ内の情報は2024年9月時点のものです。

昨今、世界では戦争や紛争が起き我々の目にもニュースとして入ってくる。ユニセフによると、戦時下であるウクライナでは浄水場が爆撃で破壊され、2017年6月には10万4000人の子どもを含む約40万人への飲用水の供給が途絶えたという報告があった。2023年8月においても、ウクライナ住民は断水や水質汚染に悩まされている。復興支援として飲み水の提供は急を要する。

戦後復興、そしてこれまでの日本の水を支えてきた日本原料株式会社。本来のモノづくり企業としての魂を引き継ぎ、海外という新たなステージを目指す3代目齋藤安弘社長に話をうかがった。

私たちの生活に欠かせない水の8割は日本原料株式会社のフィルターを通している

ーー初代社長のお孫さんとして会社を継ぐ前に横河電機に入社されていたそうですが、どのような経緯があったのでしょうか。

齋藤安弘:
最初は日本原料という会社が何をしているか全く知らず、横河電機で勤めあげるつもりでいました。ですので、ある日先代の祖母から継ぐように言われましたが、断りました。

ところが、祖母は僕の1歳の誕生日に祖父と一緒に撮った写真の横に「夢でもいいから20年」と書かれた色紙を持ってきて、「あなたを可愛がっていた祖父は、亡くなる前に“夢でもいいから、20年後には自分の会社を継いでいてほしい”という気持ちでいたのに、まさか入らないわけないわよね」と言うのです。僕はその時に祖父の思いを知り、勤めていた横河電機を3年目で辞めて日本原料に入社しました。

日本原料というと馴染みがないかもしれませんが、実は全国の浄水場の約80%は弊社のろ過材を使って水道水を作っています。ご家庭や学校、職場で使う水道水の大半は弊社のろ過材、フィルターを通してできているということを知ると、身近な会社であることがお分かりいただけると思います。

社内におけるジェネレーションギャップ

ーー入社されてからどのような取り組みをされましたか?

齋藤安弘:
入社時は社員数60人弱の会社でしたが平均年齢が57歳で、60歳定年の会社でしたから、あと3年経つと誰もいなくなってしまう、というような状況でした。横河電機では平均年齢30歳ぐらいの活気のある職場で働いていたので、とてもジェネレーションギャップを受けました。

営業に入ったのだから、どこに営業に行くべきかを先輩方に聞いたら、「浄水場のろ過材が汚れてきたら電話がかかってくるから、そのときに行けばいい」と言うのです。

さらに、平成元年当時はパソコンや電子機器が少しずつ普及しはじめた頃でしたが、弊社は経理も営業部長も皆そろばんを使っていました。2時間でできるはずの仕事を弊社は2日かけるというスピードですし、何か新しいものを取り入れようというマインドが誰にもありません。ですので、まずパソコンを買ってもらうよう稟議書をあげたり、平均年齢を若返らせるため、採用活動に力を入れたりしました。

ですが、「新しくこの会社を作っていこう」「やりたいことを行っていこう」という触れ込みで入ってきた新入社員は、いざ配属された部署の先輩方に提案を出しても、「こんなの20年前に考えたんだ」と却下されてしまい、数年かけて新入社員たちを数十人採用しても、数人しか残らない、というようなことが続いていました。

先輩社員を研修に出したこともありましたが、結果としては変わらず、この時は、もうあと数年で来る先輩方の定年まで待とうと諦めていました。

浄水場での死亡事故と転換期

ーーどのような経緯で変わることができたのでしょうか。

齋藤安弘:
ある日の朝7時半ごろ、工場で机を磨いていたら電話が鳴りました。「川崎の浄水場で死亡事故が起きたからすぐに帰ってこい」という電話でした。

事故現場での対応が終わり、賠償のために弁護士に相談に行ったところ「ご遺族がいらっしゃるから、まずはその人たちに対してできることをきちっとやりなさい」と言われ、各地のご遺族のところに行ってご説明と謝罪をしました。

ご遺族の方々が最後に集まった際に、代表の方が私たちと必ず1つ約束をして欲しいとおっしゃったんです。その約束というのが、「もう2度と同様の事故を起こさない」ということでした。

「先輩社員の定年まで待とう」「20代、30代の職員に代替わりしてから会社を変えよう」と思っていた僕が、すぐに約束できるわけがありません。たくさん時間をかけて考えましたが、今すぐにこの会社を改革するのだと腹を括り、「絶対事故を起こさないようにします」とご遺族に約束しました。

結果として、その大きな事故が会社を変えるきっかけとなりました。

ジェネレーションギャップを埋めるまで

ーー実際にどのような改革をされましたか。

齋藤安弘:
安全対策委員会を作ったり、研修をしたり、工場の在り方についてミーティングを設けたりと少しずつ行いました。そうした社内改革の中、本社の新入社員10人ほどで新しい工場を作ろうとプロジェクトを立ち上げました。

工場に設置する砂の選別機械の仕組みを知らなかったので、工場で働いている先輩社員に聞こうと思いましたが、信頼してくれず教えてもくれません。懐に入り込むために、毎晩のように酒席に連れ出し、やっとのことで仕組みを聞き出し形にしていきました。先輩たちもだんだん、自分たちの既得権益だった技術を「後輩たちがよく理解した上で機械にしてくれた」という喜びを感じてくれるようになりました。

そして、ついに平成7年に工場を完成させ、我々と先輩方とのジェネレーションギャップが一気に埋まりました。そこから「良い工場にしていこう」という雰囲気が会社全体を覆うようになりました。

日本の技術として世界に貢献する

ーー今後の注力テーマを教えてください。

齋藤安弘:
弊社は、昭和14年の創業当時は、ガラスの原材料をふるい分ける会社としてスタートしました。板ガラスの原材料はシリカという砂です。ですので、砂の粒をふるい分ける技術がありました。

戦後、アメリカ軍の空爆で日本の浄水場のほとんどが壊滅していました。水道事業を復旧させるにあたって、GHQから「日本の水道復興として貴社の技術でろ過材を作ってみませんか?」というお話をいただきました。そこから弊社はガラスの原材料から、ろ過材を扱う会社に変わりました。

水処理をやっている企業ですが、その前にモノづくり企業であることがまず根底にあります。それは私の代になっても引き継がれて、モノづくりを根本にした会社として運営しています。

世の中にないものや新しいテクノロジーを常に開発して、製品化したときに驚いてもらえるようなものをつくるために、ろ過材にこだわらず商品開発をしていきたいと思っています。

ーー今後の展望をお聞かせください。

齋藤安弘:
世界の何億もの人たちが、海外で安全な水にアクセスできないということは事実としてあります。その人たちに弊社の技術を使って安全な水を提供し、水の格差をなくしていくプロジェクト、コロナ禍にリモートで進めていた案件が形になり始めています。

また、戦争によってウクライナの浄水場はほぼ壊滅状態のため、復興支援として浄水装置を提供するプログラムで、弊社の「モバイルシフォンタンク」が使われることが決まりました。これは弊社が考える新しい水道の形で、必要な場所に必要な量をフレキシブルに移動して、水を供給できるような浄水装置です。

日本のビジネスモデルとして確立した浄水装置を海外にも展開し、「日本の水道システムが世界に貢献できる」という可能性を追求していきます。

編集後記

モノづくり企業の精神を引き継ぎ、社内改革に奮闘・邁進してきた齋藤社長。物腰柔らかに話しつつもその瞳は熱く燃え、日本の技術を背負って立つ覚悟が感じられた。

日本のみならず海外でも安全な水を確保するためにはさまざまな問題が立ちはだかるが、「THE INNOVATOR’S SPIRIT」を掲げ立つ齋藤社長がどのようにして海外展開を成功させていくか、今後も注目していきたい。

齋藤安弘(さいとう・やすひろ)/1962年10月生まれ。玉川大学工学部電子工学科卒業後、横河電機株式会社に3年勤め、1989年に日本原料株式会社へ入社。取締役企画開発推進本部長、専務取締役を経て1997年に代表取締役社長に就任し現在に至る。平成25年度春の褒章 黄綬褒章を授章。