※本ページ内の情報は2024年9月時点のものです。

4大経営資源と言われるヒト・モノ・カネ・情報。この人的資源・物理的資源・事業運営資金・技術やノウハウは、企業の基礎となる重要な要素である。

株式会社庚伸(こうしん)は、企業に必要なヒト・モノ・情報を支援するサービスを提供している会社だ。キャリアを捨てて起業した経緯や庚伸の強み、目指すゴールなどについて、代表取締役社長の宮澤敏氏にうかがった。

人材派遣・オフィス設備・システム開発をトータルサポート

ーーまずは貴社の事業内容についてお聞かせください。

宮澤敏:
BtoB向けのビジネスを展開し、企業の資産であるヒト・モノ・情報の3つの事業をワンストップで提供しているのが特徴です。

ヒトの面では、BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)に力を入れています。お客様の業務の一部を請け負い、人材と、モノや情報に含まれるソフトウェアを組み合わせてサービスを提供しています。ITを活用することで人件費を抑えられるうえ、業務の内製化を支援できるのもメリットです。

モノの面ではOA機器の販売などを扱っていますが、特徴的なのは、特定のメーカーに縛られず、お客様のニーズに合わせて最適な製品を提案できることです。自社でもソフトウェアを開発していますが、さまざまなOA機器やソフトウェアのメーカーの商品の販売やメンテナンスを行っているため、お客様が求める製品を提供しています。

情報の面の特徴としては、ベトナムにある子会社でソフトウェア開発を行うことで、コストダウンを実現しています。また、現地の労働力を確保することによって、技術者不足の回避にもつながっています。

これら3つの事業を組み合わせることで、お客様に総合的なサービスを提供できることが弊社の強みです。OA機器の販売や人材業のみを行っている企業はたくさんありますが、トータルで提供している企業は珍しいと思います。

喫茶店経営で経験した、商売の厳しさと楽しさ

ーー宮澤社長の経歴についてお聞かせください。高校卒業後は喫茶店の経営をしていたそうですね。

宮澤敏:
大学に進学できなくなり、将来について悩んでいたタイミングで叔父が喫茶店を閉めると聞き、店を引き継ぐことにしたのです。ただ経営状況は厳しく、朝の6時に仕込みをして夜の12時まで働いても日々、手元には2000円しか残りませんでした。

繁盛店との違いを探るため、バイクを走らせていくつもの喫茶店を回りました。そんなとき、何かヒントを得られればと考えて、展示会に行ってみたところ、山食パン(山型食パン)が目に留まりました。これなら若い女性に人気が出ると思い、モーニングメニューを見直したのです。

そして角食パンとゆで卵から、山食パンとサラダ、スクランブルエッグに変えたところ、一気に来店数が増えたのです。「少し工夫するだけでこんなにも変わるのか」と驚き、商売の面白さを実感しました。

ーーその他にはどのような工夫をしたのですか。

宮澤敏:
昼の集客も増やすため、常連の方に相談したところ、「カレーとピラフ、サンドイッチだけでは飽きてしまう」といわれました。そこで日替わり弁当を始めたところ、近くの警察署から出前の注文が入るようになり、朝だけでなく、昼間も繁盛するようになりました。

ただ原価が高い分、売上が増えても利益が残らないという状況に陥ってしまったのです。そこで原価を抑えるために大量に仕入れることにしましたが、材料をすべて使いきれないのが問題でした。そこで近所の方々に余った野菜を安値で買いとってくれないかと相談したところ、快く受け入れてもらえました。

病気を患い、会社員へ転身。そのキャリアも捨てて起業するまでの経緯

ーーその後、喫茶店を辞めて会社員になった経緯を教えてください。

宮澤敏:
経営が軌道に乗り始め、店舗を増やしていこうと思っていた矢先、病気で倒れてしまったのです。それからしばらく仕事に復帰できず、やむなく喫茶店を畳むことになりました。

学生時代は大切な試合の直前に怪我をして出場できず、大学受験も失敗し、その後は病気になるなど不運続きの人生でした。神様や仏様はどこまで私の邪魔をしたいのかと、この廃業時にも、ひどく落ち込みましたね。

それでも休んでばかりはいられないので、とりあえず職に就こうと、就職活動を始めます。就職情報誌を見て、片っ端から電話をかけた結果、一社から内定をもらいました。会社員として働き始めてからは、給料日に給料が振り込まれることをありがたく感じました。

それからは自分を雇ってくれた会社に恩返しをするため、仕事に邁進しました。

ーー会社を立ち上げたきっかけは何だったのですか。

宮澤敏:
営業職として成果を上げ、係長に昇進しました。しかし、入退院を繰り返していたため、これ以上、会社や部下に迷惑をかけられないと、退職を決意しました。ただ、上司から引き止められ、事務職として会社に残ることになります。

その後、大阪から東京に転勤になり、統括部長に昇進しました。しかし、中枢に近づくにつれ、会社の見え方が変わっていきました。恩を感じてはいるものの、退職者が出たら増員すればいいという考えに疑問を持つようになったのです。

それを機に、「一緒に働く仲間を大切にする会社をつくりたい」と思うようになりました。周りからは今の地位を捨て、何の伝手もない状況で起業することを反対されましたが、自分の理想を叶えることを優先しました。

起業後はコピー用紙の販売とカラオケ機器に関する工事の仕事から始め、徐々に事業を拡大していきました。

適度なスピードで成長を目指し、社員と共にお客様の課題解決をサポート

ーー社員の育成についてはどのようにお考えですか。

宮澤敏:
前職で社員を追い込んで疲弊させてしまったことを反省し、今は背伸びすれば届くくらいの目標を掲げるようにしています。以前は高い目標を目指して突き進むあまり、社員を思いやる余裕がありませんでした。

起業時の理念を忘れ、いつしか社員たちを置き去りにしてしまっていたのです。そこで、これまでの反省をふまえ、成長スピードにこだわり過ぎず、適度なレベルを保つことで社員の成長を促しています。

なお、自分自身にはジャンプしてようやく手が届くくらいの目標を設定し、常に高みを目指すよう努めています。

ーー最後に今後の展望についてお聞かせください。

宮澤敏:
私が目指すゴールは、社員が定年退職するときに「この会社に入ってよかった」と心から思える会社をつくることです。売上高が50億円になっても100億円になっても、それはただの通過点でしかありません。社員が幸せを感じられ、お客様にも喜んでいただける会社を目指し、これからも邁進していきます。

編集後記

怪我や大学受験の失敗、大病など、人生の節目で不運に見舞われてきた宮澤社長。それでもめげずにコツコツと努力した結果が、今につながっているのだと感じた。顧客の課題をワンストップで支援し、仲間と共に成長を続ける株式会社庚伸は、これからも多くの企業を支えていくことだろう。

宮澤敏/1964年生まれ、京都市出身。1982年、日吉ヶ丘高校を卒業後、喫茶店経営を経て、1985年に株式会社フォーバルに入社。業務統括部長を経て独立し、起業。1990年に株式会社庚伸を設立し、代表取締役社長に就任。