
兵庫県城崎温泉で旅館「湯楽Kinosaki Spa&Gardens」を運営する株式会社ユラク。比較的高価格帯ながらも高い人気を誇る旅館「湯楽」は、実は「お客様第一」ではなく「従業員第一主義」を掲げている。この理念を打ち出したのは、3代目社長である伊藤清範氏だ。従業員第一主義を掲げる理由やその人気の秘訣について話をうかがった。
お客様との接点を最大化する多角経営
ーー貴社の歴史について教えてください。
伊藤清範:
創業者である祖父は、太平洋戦争後、祖母とともに生家近くの城崎温泉で出稼ぎ生活を始めました。そこで経験を積み、1965年に開業した民宿が事業の第一歩でした。2代目の父が法人化に踏み切り、弟たちと力を合わせて事業を拡大させてきました。
私は長男として、幼少期からの期待に応え、大学卒業後すぐに家業に入りました。他の道を考えたことは一度もありません。現在、私には2人の子どもがいます。50年以上続いてきたこの家業を、できれば長男に4代目として継いでもらいたいと思っています。
ーー現在、どのような事業を展開されていますか?
伊藤清範:
弊社は現在、4つの事業を展開しています。メインは旅館業、次に飲食店の運営、さらに雑貨やギフトの店舗運営、そして海産物の販売です。宿泊施設は結婚式や法事、パーティーなどに利用されています。そのため、提供する料理や引き出物、お土産の販売などはすべて自社で手掛けることにしました。こうして一見無関係な組み合わせの事業は、お客様の多様なニーズに応えるために発展したのです。
ーーユラクに入社後、大変だったエピソードを教えてください。
伊藤清範:
入社してすぐ、海産物販売店に配属され、5人ほどの小さな店舗で営業や仕入れ、経理、労務管理といった幅広い業務に取り組んでいました。しかし、その後、旅館事業に異動して驚いたのは、それまで自分は販売店で海産物を売るために毎朝競りに行っていたにもかかわらず、旅館の料理には、鮮魚店から購入した別産地の養殖魚を提供していたことです。
「城崎の魚が食べたい」というお客様の声に応えたいと思い、自ら競りで仕入れた魚を調理場に持ち込みましたが、現場では頭や内臓が付いた魚は処理に手間がかかると敬遠されました。そこで、競り市での仕入れから料理、片付けまでを一手に引き受け、朝6時から夜10時まで4年間奮闘した結果、少しずつ調理場の理解が得られ、料理を強みにした旅館として認知されるようになったのです。
小さな投資が生んだ大きな成果 若年層へのアプローチ

ーー旅館の運営を成功させるため、他にどのような取り組みをしましたか?
伊藤清範:
私が引き継いだ当時、旅館のお客様は50代以上が多かったため、自分が泊まりたいと思う宿を作れば、同世代のお客様にも喜ばれると考えました。そこで行ったのが「小さな投資で大きな満足感」を生む仕掛けです。まず、時間貸しで別料金だった貸切風呂を無料化し、浴槽に花や果物を浮かべました。
また、アメニティも業務用の安いものから、一般家庭では手が届きそうで届かない高級ラインのものに切り替えたのです。「おしゃれな貸切風呂」と「地元食材の料理」を武器に旅行雑誌に掲載されると、客層が20代、30代へと一気に若返りました。実はこの改善のため、宿泊費をわずか500円上げたのですが、誰も気がつかず不満も出ませんでした。こうして人気を得たおかげで、多額の費用がかかる全館リニューアルも実現できました。
ーー運営上で大切にしていることは何ですか?
伊藤清範:
お客様が旅館を予約する際、まずは設備に着目して選ばれますが、リピートの理由になるのはスタッフの何気ない会話や子どもへの心温まる対応のような、人のサービスです。旅館は人づくりだと思います。
「おもてなし」とは「思いやりを以(も)って成す」といった意味を含み、「お客様のことを思って言われる前に成し遂げる」というのが、弊社の合言葉です。「傘を貸してください」と言われる前にお持ちするのが接客、「おもてなし」だと考えています。
お客様の満足度を上げる従業員第一主義
ーー社長に就任してから社内で取り組んだことを教えてください。
伊藤清範:
父の代は「お客様は神様です」が流行した時代で、父は支配人に、支配人はその部下に強く接し、現場の従業員は笑顔を強要されている状況でした。そのため、接客部門と調理部門の間に対立も生まれていました。私は、そのような環境では従業員が定着せず、真の笑顔でないとお客様の満足度も上がらないと考え、従業員第一主義に転換しました。
お客様を喜ばせるのは私一人ではなく、多くの従業員です。私の役割は、従業員を満足させ、彼らが心からの笑顔でお客様に向き合える環境を整えることだと考えています。今では社内の人間関係も改善され、チームワークに自信を持てるようになりました。
最初に取り組んだのは、接客部門と調理部門の性別のバランスをとり、男女比を半々にすることでした。また、評価制度を透明にし、決算も従業員に公開しました。単位制の社員教育プログラムでは、勤務時間内に茶道や着付けの講義を受けられます。
また、旅館業では朝と夕方が勤務時間で昼間に長い休憩があるのが一般的ですが、弊社では継続8時間勤務の2交代制に変更し、拘束時間を減らしました。その分、清掃や手間のかかる下ごしらえは外注せずに自社で行うようにしています。
ーー現在、どのような課題がありますか?
伊藤清範:
新卒採用は順調ですが、中間管理職層が少ないことが課題です。本格的な採用活動を始めたのが2010年代からであり、5年、10年以上の経験を持つ人材が不足しています。弊社の価値観に共感できる人を求めているため、中途採用でいきなり中間管理職として雇用することは考えていません。宿泊業での経験が数年程度あり、転職を考えている20代、30代の方の入社を歓迎しています。
ーー今後のビジョンを教えてください。
伊藤清範:
事業の成長には、従業員の満足度向上が重要だと考えています。「働いて良かった」と感じてもらえる会社づくりが私の最大のテーマです。売上の向上と従業員の喜びが比例するようにしたいですね。宿泊業としての成長も目指していますが、必ずしも旅館にこだわらなくても良いと考えています。どのような形であれ、お客様に本物を提供するため、従業員第一主義の体制を今後も強化していきます。
編集後記
わずかな価格改定が顧客に大きな満足をもたらす、その戦略の奥深さに触れ、これを書き記すべきか、一瞬筆が迷った。リニューアルを終えた今だからこそ聞けた情報かもしれない。しかしいずれにしても、株式会社ユラクの真髄はそこではない。
従業員を大切にする企業は増えているが、同社ほどの手厚さはまだまだ稀だ。時代に合わせた変革を続ける伊藤社長のもとで、幸福な従業員たちがどのように新しいおもてなしの形を生み出すのか、今後の展開に期待が膨らむ。

伊藤清範/1978年、兵庫県生まれ、摂南大学卒業。2001年、株式会社ユラクに入社。2005年、同社の海産物販売店「朝市広場」店長就任。2012年、同社代表取締役社長に就任。