※本ページ内の情報は2025年6月時点のものです。

1925年の創業以来、日本の産業とともに歩んできた日本冶金工業株式会社。100周年を迎える節目のタイミングで代表取締役社長に就任したのが浦田成己氏だ。

若手時代から営業、企画、海外駐在と幅広い経験を積み、数々の困難と直面しながら着実にキャリアを重ねてきた浦田氏は、どのような未来を描いているのか。「汎用ステンレス」と「高機能材」の二本柱で挑む成長戦略と、素材を通じて社会に貢献するという覚悟について聞いた。

地に足のついた仕事を求めて入社。最初の舞台は情報システム部門

ーー入社したきっかけを教えてください。

浦田成己:
就職活動をしていたとき、正直に言うと明確なビジョンがあったわけではなく、「地に足のついた仕事がしたい」という漠然とした思いがあり、製造業を志望しました。証券や金融、商社といった業界よりも、「モノづくりの現場に関わりたい」という思いが強かったのを覚えています。

ーー入社後、どのような業務に就かれましたか。また、印象に残っているプロジェクトはありますか。

浦田成己:
入社後、最初に配属されたのは計算センターでした。今でいう情報システム部門にあたる部署です。当時の私はコンピュータに関する知識も一切ない状態からのスタートでしたので、講習会に通ったり先輩方に教わったりしながら、プログラム作成やシステム設計に取り組みました。

当時、担当した薄板の生産管理システムは社内でも重要度が高く、やりがいのある仕事でした。設計段階から実装、運用まで関われたことは貴重な経験で、社内の他部門との連携を通じて、業務プロセス全体への理解も深まりました。また、このプロジェクトでは、製造現場のニーズを反映しながら使いやすさと効率性を追求し、会社の基幹業務を支えるシステムを構築する責任を実感しました。

ーーその経験が後のキャリアに影響を与えたのですね。

浦田成己:
これまでのキャリアを振り返ると、この時期が一番充実していたと言えるかもしれません。技術的な知識だけでなく、現場に寄り添う姿勢や改善の視点を身につけることができたのが大きな財産です。また、ものづくりの根幹を支えるインフラに携わったことで、製造業におけるITの重要性を早い段階で実感できたのは、後々の営業や企画業務にもつながる土台になりました。

営業と海外駐在で鍛えられた柔軟性と現場感覚

ーー営業部門への異動後、どのような業務に取り組まれましたか。

浦田成己:
情報システム部門での5年の勤務を経て、その後は営業企画や管理部門、そして輸出営業など、社内のさまざまな部署を経験しました。中でも大きな転機となったのは、1993年から4年弱、シンガポールに駐在した時期です。当時は英語が得意ではなく、現地での交渉も非常に苦労しましたが、ASEAN市場を一人で担当することで、商談力や判断力が鍛えられました。

ーー競争が激しい市場で成果を上げるために、どのような工夫をされましたか。

浦田成己:
価格競争では韓国や台湾のメーカーに勝てないと判断し、品質で勝負する戦略を取りました。歩留まりの良さや安定供給といった点を強みとし、現場の声を工場にフィードバックして改善を重ねました。こうした品質重視の姿勢が、アジア市場の中でも評価されるようになったのだと思います。

ーー帰国後はどのような業務を担当されましたか。

浦田成己:
帰国後は香港・中国エリアの営業を担当。ちょうど広東省を中心に器物(鍋や釜など)用ステンレスの需要が急拡大していた時期で、取引実績ゼロに近いところから販路を開拓し、輸出量を大きく伸ばしました。商談がうまく進むたびにダイナミックに数字が跳ね上がる経験をし、現地との距離感や対応スピードの重要性を肌で感じていましたね。

ーー成果の裏には苦労や試練もあったのではないでしょうか。

浦田成己:
もちろん順調なことばかりではなく、アンチダンピングの問題や、クレーム対応に追われることも多々ありました。ですが、そうした場面こそが自分の営業スタイルを形づくる転機にもなりました。この頃に、“現場と工場をつなぐ橋渡し役”としての意識が定まったのかもしれません。

企画室で見た「会社全体」の姿と構造改革の現場

ーー管理職として初めて関わった企画室では、どんな課題に直面しましたか。

浦田成己:
2000年から3年間、企画室(現在の経営企画部)に配属されました。当時の日本冶金工業は業績が低迷しており、過去に立てた中期経営計画(中計)の見直しと再策定に取り組む必要がありました。最終的には、3年間で3度の中計策定を経験することになり、その中には大胆な構造改革や営業戦略の見直しも含まれていました。

ーー中でも印象的だった改革や戦略転換には、どのようなものがありますか。

浦田成己:
もっとも大きな転換点となったのは、弊社の戦略を汎用ステンレスから高機能材へとシフトする改革でした。素材メーカーとしての技術とノウハウを活かし、より高付加価値な製品を提供する方向へ舵を切ったのです。私自身もその中計策定に携わり、営業戦略や製品ポートフォリオの見直しなど、重要な意思決定に関わることができました。

ーー現場から企画部門に入って、新たに見えてきたことはありましたか。

浦田成己:
当時は経営層と現場のあいだで意見をすり合わせることが求められましたが、その際、前職の経験が大いに役立ちました。品質や工程に対する理解があったからこそ、机上の理論にとどまらず、現場で実行可能な計画を意識して立案できたと思います。また、社内の多くの部門と連携を取りながら、会社全体の動きを見渡す視点を持てたことは、その後のキャリアにとって大きな影響を与えています。

ーー経営企画を経験した後のキャリアには、どうつながっていきましたか。

浦田成己:
その後、再び営業部門に戻り、今度は高機能材の輸出営業に注力することになりました。企画部門で描いた戦略を自らの手で実行に移すという意味でも、非常に責任の大きいフェーズ。ゼロからのスタートに近い状態でしたが、関係部署と連携しながら市場を開拓し、最終的には輸出量を大きく伸ばすことができました。

高機能材の輸出営業で挑んだ、ゼロからの市場開拓

ーー高機能材の営業は、従来の汎用ステンレスと比べてどう違いましたか。

浦田成己:
まず、これまでとは異なるお取引先を探す必要がありました。汎用ステンレスはある程度決まったマーケットがある一方で、高機能材はそもそも用途開発から始めなければなりません。どこに需要があるのかを調査し、顧客と一緒に素材の可能性を探っていくような営業です。営業としては難易度が高いですが、その分やりがいも大きかったですね。

当時の国内市場では、ブラウン管テレビの内部材として使用されるジャドウマスク向けの需要が多く、高機能材販売量の大半を占めていました。しかしながら、その後のたった数年の間に液晶テレビへの移行が急激に進み、瞬く間に需要が激減し、ついにはゼロになってしまいました。

そのため、高機能材の販路を海外市場に求めることになり、私を含めた海外営業部員はゼロからの立ち上げを迫られることになりました。ようやく受注に漕ぎ着け納入すると、いきなりクレームになることもしばしばでした。幸いにも社内の製造部門や技術部門のバックアップ体制が整っていたので、クレームやコスト課題にも迅速に対応でき、そのおかげで輸出量を大きく増やすことに成功。最終的には数量ベースで70倍程度まで成長させることができました。

ーー高機能材の営業を通して得た学びとは何でしょうか。

浦田成己:
自分たちの製品を「どう売るか」だけでなく、「どこで使われるべきか」「どこで役立つのか」を常に考えるようになりました。開発的な視点と市場的な視点の両方を持つことで、素材ビジネスの本質に迫れたような気がします。

社長就任とともに見えた「二本柱」の明確な道筋

ーー社長就任のお話を聞いたとき、どのような思いがありましたか。

浦田成己:
前社長から社長就任を打診されたときは本当に青天の霹靂でした。自分が社長になるなど想像すらしていなかったので、「本当に自分でいいのか」と。また、就任が決まったのは、弊社が創業100周年という節目を迎えるタイミング。そうした意味でも大きな責任を感じましたね。

さらに、長年取り組んできた「汎用ステンレス」と「高機能材」という二本柱の戦略がようやく形になり始めていた時期でもあったんです。「これらの柱をさらに太くし、未来に向けて発展させていくのが、社長としての自分の使命だ」と考えました。

ーーこれまでの経験が社長業にどのように活きていますか。

浦田成己:
システム部門に始まり、営業、海外駐在、経営企画など、幅広い部門を経験したからこそ、それぞれの部門が何を大事にしているか、どんな悩みを抱えているかが肌感覚で分かります。ですので、社内全体を俯瞰して見られるようになった強みを活かして、各部署の力が結集できるよう心がけています。

脱炭素・循環型社会に向けた研究開発と設備投資

ーー環境変化への対応として、どのような取り組みを進めていますか。

浦田成己:
私たちは素材メーカーである以上、社会や市場の変化に即応していく必要があります。とりわけカーボンニュートラルへの移行は業界全体の命題であり、CO₂排出削減の取り組みを全社的に進めています。その一環として、石炭を用いた熱源をLNGに転換したり、リサイクル原料への切り替えを強化したりと、具体的な対策を講じてきました。

ーー設備投資についても積極的に進められているようですね。

浦田成己:
ここ数年は電気炉の更新や最新鋭の冷間圧延機の導入など、大規模な設備投資を行っています。特に、冷間圧延機については、省エネルギー化や作業環境の改善にも寄与し、品質面でもトップクラスの水準を実現しています。作業者にとっても操作性の高いヒューマンフレンドリーな設計となっており、オペレーションの質向上にもつながっています。

ーー研究開発面での新たなチャレンジもあるのでしょうか。

浦田成己:
水素や再生可能エネルギーといった次世代分野への対応は、まさに今後の成長に直結する部分。今年度中には、自社内に試験機器や検証設備を備えた新たな材料評価試験場を完成させる予定です。水素環境での極低温や高圧環境下での材料特性など、これまで外部に依頼していた検証を内製化することで、開発スピードと知見の蓄積を加速させたいと考えています。

ーー変化を先取りする力が求められているわけですね。

浦田成己:
未来を正確に予測することは難しいですが、何が起きても対応できるよう、素材のバリエーションを広げておくことは重要です。弊社はニッケル合金やステンレスにおいて、他社にない幅広い品種展開を進めています。これが“どんな未来でも生き残る力”につながると信じています。

100周年を超えて、次世代とともに未来を拓く

ーーこれからの100年に向けて、会社としてどのような姿を目指していきますか。

浦田成己:
弊社では「レジリエンス」と「サステナブル」という2つのキーワードを掲げています。多様性に柔軟に対応できる力、そして、持続可能な事業運営。それらを兼ね備えた企業であり続けるために、変化に動じず、したたかに成長していける体制づくりを進めています。

ーー次世代への継承という点では、どのようなことを大切にされていますか。

浦田成己:
やはり、人づくりが何より重要だと感じています。次の時代を担う社員たちが、自らの仕事に誇りを持てるような企業文化をつくっていくこと。これが、未来を見据えるうえで欠かせない要素です。100周年というのは通過点にすぎません。次世代にバトンを渡すとき、よりよい形で受け継がれていくことを願っています。

ーー最後に、今後の展望をお聞かせください。

浦田成己:
弊社は「素材で未来をこえていく」というタグラインを掲げています。社会の課題を解決し、人々の暮らしを支える素材をつくり続けることが、私たちの存在意義であり、使命です。再生可能エネルギーや水素関連といった重要分野において、私たちの高機能材が果たす役割は今後ますます大きくなっていくはず。だからこそ、これからも社会に貢献する企業であり続けるために、挑戦を恐れず、歩みを止めることなく進化を続けていきます。

編集後記

「まさか自分が社長に」と語る姿には、素直な驚きと重責を受け止める真摯な姿勢がにじんでいた。一方で、輸出ゼロから市場を開拓し、事業構造の大転換を担ってきた実績には、確かな戦略眼と胆力を感じる。素材メーカーとしての誇りを胸に、持続可能な社会の実現を見据える浦田社長の姿は、未来に向けて一歩を踏み出す、力強い意志に満ちていた。

浦田成己/1960年、福岡県生まれ。1984年に千葉大学人文学部法経学科を卒業後、日本冶金工業株式会社に入社。情報システム部門からキャリアをスタートし、営業、経営企画、海外駐在など幅広い実務経験を経て、2024年6月より代表取締役社長に就任。