※本ページ内の情報は2025年10月時点のものです。

人口減少とEC(電子商取引)の台頭により、地方百貨店が厳しい経営環境に置かれるなか、姫路で唯一の百貨店として地域に根ざし、新たな道を切り拓き続けるのが株式会社山陽百貨店だ。同社を率いるのは、2008年に代表取締役社長に就任した髙野勝氏。株式会社天満屋で長年培った百貨店経営のノウハウに加え、オーストリアでの卓越した海外事業の経験を持つ髙野氏がいかにして危機的状況にあった山陽百貨店をV字回復させ、コロナ禍においても黒字経営を実現させたのか。その知られざる経営手腕と、社員一人ひとりの成長を追求する独自の「人材育成」への思いに迫る。

百貨店業界で培われた経験と、異国の地で得た学び

ーー大学卒業後は、どのようなキャリアを歩まれましたか。

髙野勝:
大学を卒業した後、地元で働き続けたいという想いがありました。その中で百貨店は非常に華やかで、自分の目を引くものがあり、株式会社天満屋に入社しました。入社後、お客様との触れ合いは30歳を過ぎるまでの約10年間でした。それ以降は人事、経営企画、開発、秘書といった本社機能の仕事に携わりました。

その中で最も記憶に残っているのは、オーストリアのウィーンへ赴任したことです。会社として初の海外事業となるレストランの開業を、物件探しから内装デザイン、現地との交渉までほとんど一人で担当しました。この経験は非常に刺激的でした。

ーーウィーンでの事業は、髙野社長にとってどのような学びをもたらしましたか。

髙野勝:
この事業では、日本の食文化や日本料理の美しさをウィーンの人々に紹介することに尽力しました。当時のオーストリア大統領であるトーマス・クレスティル氏から、その功績を評価され、勲章をいただいたことは、私にとって非常に名誉な出来事です。また、オーストリアの商品、たとえばワインやアンゴラの布団を日本に輸出する橋渡し役も務めました。

地方百貨店の再建を託され、経営者として歩んだ道

ーー山陽百貨店の社長に就任された経緯をお聞かせください。

髙野勝:
天満屋を退職後、私はオーストリアの知人に誘われ、インポート・エクスポートや不動産事業の会社で働く予定でした。しかし、山陽百貨店の親会社である山陽電気鉄道株式会社の当時の社長から、経営が非常に厳しい山陽百貨店の再建をものすごい勢いで説得され、託されたのです。当時の山陽百貨店は、長年の苦しい経営で、過去10年間借入金の返済が滞り、自己資本比率も1.3%と債務超過寸前の状態でした。その強い危機感を目の当たりにし、天満屋時代にも厳しい時期の立て直しを経験していたことから、私なら力になれるかもしれないと考え、引き受けることにしました。

ーー山陽百貨店の立て直しで、最初に取り組んだことは何ですか。

髙野勝:
まずはコスト管理の徹底です。売上を伸ばすことは難しいと判断し、売上が落ちても利益を落とさないという考え方で経営を進めました。私は社長就任にあたり、自らの覚悟を示すために、費用のかかる社用車の使用や経済団体・ロータリークラブへの参加などをすべてやめました。

それぞれの経費削減額は全体からすると微々たるものかもしれませんが、それ以上に社員へのメッセージとして、会社の厳しい状況と私の決意を伝えることが目的でした。このメッセージは社内に浸透し、社員たちも自分たちでできることをやろうという意識に変わっていきました。

ーーコスト削減を進める一方、人材育成や風土改革には、どのような思いで取り組まれましたか。

髙野勝:
コスト削減と並行して、私は「人への投資こそが重要だ」と考えていました。特に力を入れたのが、お金をかけずにできる最高のサービス、すなわちお客様への「笑顔と挨拶」です。これを大きなスローガンとして、2008年から継続して取り組んでいます。また、現場の社員一人ひとりの顔を見て声をかけることを大切にしています。単なる仕事の話ではなく、親近感を持つことで、社員が「社長に頼まれたら頑張ろう」という気持ちになることを願っています。私は、自らの行動でメッセージを伝えることを重視しました。私が社用車をやめるなど、身をもって覚悟を示すことで、社員に危機感を共有してもらい、自分たちで何ができるかを考えてもらうことを期待しました。

成長を追求する社員たちと、未来を担う人材育成

ーーコロナ禍で多くの地方百貨店が厳しい状況に置かれるなか、貴社が事業を継続できた最大の要因は何だったのでしょうか?

髙野勝:
コロナ禍で多くの百貨店が赤字に転落するなか、弊社が黒字を達成できたのは、過去10年以上かけて「売上が落ちても利益を確保できる経営体質」に転換できたからです。これには、お客様がお店に来なくても売上を立てられるよう、外商に優秀な人材を投入するなど、長期的なコスト構造改革の積み重ねが実を結びました。社員一人ひとりの仕事量を増やし、会社全体で人件費を抑えることで、一人あたりの給料を上げられる仕組みも作りました。

ーーこれから社会人になる若者に向けて、山陽百貨店で働く魅力を教えてください。

髙野勝:
山陽百貨店では、社員一人ひとりの仕事の範囲が非常に広く、仕事のボリュームも重いと感じるかもしれません。しかし、それは裏を返せば、若手であっても裁量を持ってさまざまな業務に挑戦できるということです。自分の担当する売り場だけでなく、百貨店全体を俯瞰してビジネスを考える視点が身につきます。

また、当社には社長である私がリーダーを務める「商品開発プロジェクト」があります。これは、自分の担当商品に縛られず、山陽百貨店で売れるものであれば何でも自由に探し、提案できる制度です。このプロジェクトを通して、自分の興味の幅を広げ、自らの手で成功体験を積むことで、大きく成長できる環境があります。

ーー最後に、未来を担う人材へのメッセージをお願いします。

髙野勝:
これからの時代を担う若い世代には、百貨店というフィールドにとらわれず、自分のやりたいことを自ら開拓する姿勢を持ってほしいと考えています。私にとって、次世代を担う人材の育成こそが、最も重要な使命なのです。特に若手社員には、私の思いを伝えるだけでなく、会社の現状や経営についてもしっかりと共有し、自ら考え、行動できる土壌を築くことに注力しています。会社や地域の未来を担う人材として成長し、自ら道を切り拓く力を持った人になってくれることを心から願っています。

編集後記

地方百貨店の厳しい経営状況を、数字や事実を交えながらも率直に語る髙野社長。10年以上かけて経営体質を根本から変革し、コロナ禍でも黒字を達成したという事実に、並々ならぬ苦労と、それを乗り越えた自信がにじみ出ていた。特に印象的だったのは、コスト削減のために自ら社用車を廃止するなど、言葉だけでなく行動で社員にメッセージを伝えてきたというエピソードだ。トップが覚悟を示すことで、組織全体が一体となって変革に挑むことができるという、経営の本質を教えてもらったように感じた。地域に密着し、市民と共に百貨店を盛り上げようとする姿勢は、これからの時代に求められる企業のあり方を示している。

髙野勝/1949年広島県生まれ、中央大学卒。1972年に株式会社天満屋に入社。2007年に山陽電気鉄道株式会社の特別顧問に就任。2008年に株式会社山陽百貨店に入社。2008年に同社代表取締役社長に就任。現在に至る。