
兵庫県丹波市で100年以上の歴史を刻む、前田建設株式会社。3代目として事業を継承した代表取締役の前田忠氏は、かつて8000万円もの借金を抱えた会社を独自の経営手腕でV字回復させた。成功の羅針盤となったのは「新聞」だ。時代の潮流を読み解き、建設業の枠を超えて事業を多角化させた。丹波から全国へと活躍の場を広げ、今また地域貢献という新たな使命に燃える同氏の軌跡をたどる。
8000万円の負債を前に固めた3代目としての覚悟
ーーこれまでのご経歴についてお聞かせください。
前田忠:
私は生まれも育ちも丹波市です。子どもの頃は長嶋茂雄さんがヒーローのような存在で憧れでした。その影響もあり、中学、高校では野球に打ち込み、甲子園の予選でプレーした経験もあります。当時は、まさか自分が家業を継ぐことになるとは思ってもいませんでした。
将来を考え始めたのは大学進学のときです。学部は土木工学科を選び、その頃から少しずつ家業を意識し始めました。もともとは兄が継ぐものと思っていましたが、兄が京都の親戚の建築会社へ就職したため、自然と「自分が継ぐしかないな」と考えるようになりました。
ーー入社されてからは、どのような経験をされたのでしょうか。
前田忠:
大学卒業後、すぐに入社しました。当時は小さな会社で、スコップやつるはしを手に現場仕事に明け暮れる毎日でした。重さが30kgほどある石を2tトラックに50個も手で積み込む作業は、本当に骨が折れました。「時が経てば終わる」と自分に言い聞かせながら、約15年間はそうした現場作業を続けました。
その間に、社員同士の喧嘩が原因で一度に10人ほどが辞めてしまい、社員がほとんどいなくなった時期もあります。私自身には知識や技術は身についていたため、アルバイトの方々の力を借りながら、なんとか現場を回していました。
ーー当時、どんな課題を感じていましたか。
前田忠:
私が入社した頃、会社には約8000万円の借金がありました。当時の売上高は5000万円ほどで、経営は非常に厳しい状態でした。「借金が1億円になったら夜逃げしよう」と本気で考えていたほどでした。
しかし、その借金は親が私たち子ども3人を大学まで行かせてくれた資金でもあると気づきました。私たちが不自由なく暮らせたのは、そのおかげです。だからこそ親を恨むのではなく、自分が返すべきだと覚悟を決めました。父はもともと学校の教師という経歴もあり、建設業の経営には不慣れな面もありました。そのため父に代わり、30歳の頃には私が営業から現場、経理まですべてを見るようになったのです。
経営危機からの脱却と躍進の礎となった不動産事業

ーー事業が拡大していく中で、転機となった出来事はありましたか。
前田忠:
大きな転機は、1979年に受注した堰(※)の工事でした。当時で5000万円弱の規模でしたが、この工事を成功させたことで会社の信用が格段に上がり、より大きな規模の仕事を受けられるようになりました。これが、100年を超える歴史の中でも、会社の流れを大きく変えたターニングポイントです。この成功をきっかけに、会社の収益も上がり始め、社員も徐々に増えていきました。
(※)堰(いせき):川の水をせき止めて水位を上げ、農業用水や工業用水として取水しやすくするための施設のこと。
ーー多額の借金を返済できた背景には何があったのでしょうか。
前田忠:
堰の工事で少しずつ状況が上向いていた頃、バブル景気が訪れました。大阪の知人から経営について学んでいたのですが、彼は不動産取引で大きな利益を上げていました。バブルで高騰した大阪の土地と、まだ安かった丹波の土地の価格差に目をつけたのです。その仲介を手伝ったことで、会社の借金の大部分を返済できました。さらに、土地の売買だけでなく、ガソリンスタンドや工場を建てる工事も受注できるようになり、事業の幅が一気に広がりました。
時代の半歩先を読むことで可能にした事業拡大の本質
ーー建設業の枠を超え、事業を広げた理由をお聞かせください。
前田忠:
常に新しいことをするのが好きで、世の中の流れを敏感に察知することを心がけてきました。その一番の情報源が「新聞」です。毎日、新聞を読んでいると、今、世の中で何が流行しているのかが見えてきます。住宅や合併浄化槽、携帯電話のアンテナ設置など、需要に供給が追いついていない分野へいち早く参入しました。流行の初期段階で入れば、素人でも周りが教えてくれますし、仕事も得やすい。このスピード感が何より重要だと考えています。
ーー事業を多角化することで、どのような強みが生まれましたか。
前田忠:
多角化の相乗効果は絶大で、不動産の経験は携帯電話の基地局を建てる際の土地探しに活きました。また、土木と建築の両方を手がけていたからこそ、鉄塔の建設からビルの屋上への設置まで一貫して請け負えたのです。土地探しから設計、施工まで全て自社で完結できる会社は他になく、それが大きな強みになりました。約30年前には、利益率が低く厳しい要求も多いゼネコンの下請けから完全に撤退する決断をしました。その分、電気や設備の専門会社との関係を深め、独自のポジションを築いてきました。
病の克服を経て芽生えた「地域への恩返し」という新たな使命

ーーご自身の考え方に影響を与えたエピソードはありますか。
前田忠:
7年ほど前に癌を患い、医師からは余命3年と宣告されたときのことです。闘病中は会社の将来もどうなるか分からず、精神的にも本当に苦しい3年間でした。しかし、幸いにも良い薬が開発され、復帰できました。この経験を乗り越えたことで、ある思いが強くなりました。それは「自分のためだけに生きるのではなく、育ててくれたこの地域に恩返しをしたい」という思いです。自分の仕事は半分、残りの半分は、この丹波市がもっと発展するための街づくりに力を注いでいきたい。それが今の私の大きな目標です。
ーー貴社で採用する人材に対し、今後どのようなことを期待しますか。
前田忠:
弊社は多様な事業を手がけています。土木や建築だけでなく、通信、エネルギー、不動産、さらにはアグリ事業(※2)まで実にさまざまです。活躍できる舞台も丹波に留まりません。大阪に支店を構え、そこを拠点に東京でのビル建設や九州でのガソリンスタンド設置、北陸でのインフラ工事など、全国各地でプロジェクトが進行中です。
もちろん、どの地域で働くことになっても、本社と変わらない万全のサポート体制を整えています。たとえば、未経験からでも会社が費用を全面的に支援する資格取得制度を活用し、着実にスキルを身につけることが可能です。現場では面倒見の良い先輩たちがしっかりと指導しますので、安心して挑戦してください。
多様な事業と全国に広がる現場、そして成長を支える環境が整っています。自分の可能性を試し、スケールの大きな仕事に挑戦したい人にとって、最高の舞台がここにはあると自負しています。
(※2)アグリ事業:農業とビジネスを組み合わせた言葉。農産物の生産だけでなく、資材の供給、加工、流通、販売、さらには観光や農業体験などの関連サービスまで含めた、農業を中心とした経済活動の総称。
編集後記
前田氏の経営哲学は「世の中で何が流行しているのかを探り、いち早く参入する」という、極めて自然な思想に貫かれている。その流れを掴むためのツールが新聞だった。誰もがアクセスできる情報から、自社の進むべき道筋を見出し、果敢に行動する。その積み重ねが100年以上の歴史を築き、会社の未来を拓いてきた。同社の挑戦は、変化の時代を生き抜く全ての企業にとって、大きな示唆を与えてくれるだろう。

前田忠/1954年、兵庫県丹波市生まれ。篠山鳳鳴高校を経て、近畿大学理工学部土木工学科を卒業。大学卒業後、前田建設株式会社に入社。1994年、同社代表取締役に就任。「時代の流れを読む」鋭い視点で事業の多角化を推進し、同社を地方から全国へと展開する企業へと成長させた。現在は、事業とともに故郷への恩返しとなる地域貢献にも力を注いでいる。