
東京・板橋区に本拠を構え、港区をはじめとする都内有数の飲食店街で、食のプロフェッショナルたちから厚い信頼を寄せられている食肉卸企業がある。株式会社丸富商店だ。1995年の創業以来、和牛を中心とした高品質な食肉を提供し続け、近年では自社牧場の運営や海外輸出、工場直売など、従来の食肉業の枠を超えた多角的な展開を見せている。
その陣頭指揮を執るのが、沖縄県石垣島出身の「叩き上げ」経営者、同社代表取締役社長の野田英氏だ。「何も準備してないよ」と笑いながら現れた野田氏は、飾らない人柄の中に、食肉への熱い情熱と、業界の常識を覆してきた反骨心を秘めていた。南の島から単身上京し、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた野田氏の波乱万丈な半生と、その根底にある揺るぎない信念に迫った。
「とにかく島を出たかった」少年が肉のプロになるまで
ーーまずは、キャリアのスタートからお聞かせください。
野田英:
高校まで石垣島で育ちました。当時は野球に打ち込んでいましたが、とにかく「島を出たい」という一心でしたね。もっと広い世界でお金を稼ぎたいという野心があり、高校卒業と同時に上京しました。最初は専門学校に入ったものの、わずか3ヶ月ほどで足が遠のいてしまいました。
その後、実は生活のためにガソリンスタンドでアルバイトをしていた際、ひょんなことから肉屋の社長と知り合ったのが転機となりました。「うちで働かないか」と誘われ、19歳で都内の食肉二次問屋に入社したのが、この業界に足を踏み入れたきっかけです。当時は枝肉(骨付きの肉)を担いだり、骨を抜いたりと、とにかく現場で体を使い、見様見真似で仕事を叩き込まれました。
ーーその後はどのようなキャリアを辿られたのですか
野田英:
最初に入った会社が倒産してしまったり、いろいろなトラブルに巻き込まれたりと、20代は本当に波乱の連続でした。給料未払いや、ここではお伝えできないような怖い思いもしましたが、あの頃に「商売の厳しさ」や「人の裏表」を嫌というほど見せつけられた気がします。そうした激動の時期を経て、大きな転機が訪れたのが26歳の時でした。父と仰ぐ創業者が中心となって立ち上げた、株式会社丸富商店に合流することになったのです。それは1996年1月のことでした。当時は社員も数名しかいない小さな会社でしたが、そこから私の第二のキャリアが始まりました。
業界の「非常識」を「常識」に変えた顧客第一の改革

ーー貴社に入社されてからは、どのような改革に取り組まれたのでしょうか。
野田英:
当時、私たちのような一次問屋が飲食店へ直接肉を卸すことは、業界のタブーとされていました。問屋は仲卸や小売店に販売するのが通例であり、飲食店との直接取引は「細かな商売だ」と冷ややかな視線を向けられる時代だったのです。しかし、従来の問屋業は利益率が非常に低く、会社を存続・成長させるためには、より付加価値を高めたビジネスモデルへ転換する必要があると考えました。そこで私は、周囲の反対を押し切り、飲食店への直接販売に踏み切ったのです。
ーー現在、多くの飲食店から厚い支持を得ている貴社の強みはどこにあるとお考えですか。
野田英:
今では、飲食店向けの卸売りが売上高の大きな柱となっています。弊社の強みは、長年培ってきた確かな目利きと、お客様の要望に寄り添うきめ細やかな対応です。脂身や赤身のバランス、サイズ指定など、お客様のニーズは千差万別です。私たちは単に肉を切り分けて届けるのではなく、その店にとって最良の状態で提供することに心血を注いでいます。包丁の入れ方ひとつで肉の味わいや歩留まり(可食部の割合)は劇的に変わるため、そこには職人としての強い自負があります。「肉」という命を預かる責任を胸に、機械的な作業ではなく、一点一点を丁寧に扱う。その積み重ねが、お客様との信頼関係につながっているのだと確信しています。
「できるか」ではなく「やるか」 自社牧場と加工品で見据える未来

ーー既存の卸売業という枠を超えて、新たな挑戦もされているのですか。
野田英:
故郷である石垣島で自社牧場の運営を開始しました。背景には2010年の口蹄疫や2011年の東日本大震災があります。多くの生産者が廃業を余儀なくされ、牛の価格が高騰する中で、このままでは資本力のある大手メーカーしか生き残れないのではないかという強い危機感を抱いたのです。
そんななか、石垣島で繁殖農家を営んでいた義父の体調不良が重なり、家業をサポートする形で生産の現場に携わることになりました。当初は「広い場所に放牧しておけば育つだろう」と安易に考えていたのですが、現実は夜中の出産や病への対応など、苦労の連続でした。
挫けそうになった私を救ったのは、ある獣医師にかけられた「できるかできないかではなく、やるかやらないかですよ」という叱咤激励でした。その言葉に突き動かされ、経営者としてこの事業をやり抜く腹が決まったのです。
ーー生産から販売までを手がけることで、どのようなメリットがありますか。
野田英:
自分たちで育てた「丸富牛」というブランドを持てることは大きな強みです。また、生産者の苦労を知ることで、肉をより大切に扱うようになりました。こうした自社の強みを活かし、最近では加工品の開発も強化しています。月に一度開催している工場の直売会では、精肉だけでなく、こだわりのカレーなども販売し、おかげさまで行列ができるほどの人気をいただいています。地元の方々に直接「美味しい」と言っていただけるのは本当に嬉しいですね。
世界へ挑み次世代へバトンをつなぐ

ーー会社としてさらに成長するために必要だと感じていることは何ですか。
野田英:
やはりマーケットの拡大と、それを任せられる「人」ですね。実は現在、タイやシンガポール、マカオなどへの海外輸出を進めているところです。ただ肉を送るだけではなく、輸出認定工場のスタッフに対する指導もあわせて行っているんです。日本のお肉は繊細で、扱い方一つで価値がガラリと変わってしまいますから、そこは厳しく伝えています。また、そうした現場を任せるために、社内では若い社員にどんどんチャレンジの場を提供しています。たとえばタイへの出張などは、あえて私は同行せず、若手だけで行かせることもありますね。「失敗してもいいから、自分たちで考えてやってみろ」と。自分で考えて動くことが一番の成長につながりますし、何より仕事が楽しくなりますから。
ーー最後に、今後の展望をお聞かせください。
野田英:
近い将来、売り上げ100億円を目指したいと考えています。そのためには、国内の販路拡大はもちろん、海外展開の強化、そして牧場事業の拡大が必要です。ゆくゆくは、牛の繁殖から肥育、加工、販売までをすべて自社グループ内で完結させる「完全一貫体制」を築き上げたいですね。時代は変わっても、美味しいお肉を届けたいという思いは変わりません。これからも「肉のプロフェッショナル集団」として、生産者と消費者の架け橋となり、日本の食文化を支えていきたいと思います。
編集後記
食肉への熱い情熱と、業界の常識を覆してきた反骨心を秘める野田氏。石垣島から単身上京し、幾多の修羅場をくぐり抜けてきたその半生と、揺るぎない信念には圧倒される。自社牧場の運営や海外展開、さらに加工品開発と、既存の枠を超えて挑み続ける姿は、まさに食肉業界の旗振り役といえる。生産者と消費者の架け橋となり、美味しい肉を届けるために邁進する同社の未来は、さらなる広がりを見せていくことだろう。飛躍が楽しみだ。

野田英/1969年沖縄県石垣市生まれ。高校卒業と同時に上京し、1996年に株式会社丸富商店に入社。長年にわたり食肉業界で経験を積む。2015年、東京・中野新橋に食肉小売店「肉匠 丸富」を開業。その後、故郷の石垣島にて和牛の繁殖事業に着手し、2018年に農業生産法人株式会社丸富ファームを設立。2021年、同社代表取締役社長に就任。「生産から小売まで」を見据えた事業展開を行っている。