※本ページ内の情報は2026年3月時点のものです。

昭和18年、大阪市福島区にて甘党喫茶として創業。昭和22年、心斎橋に開店した喫茶レストラン「心斎橋ミツヤ」。「あんみつ」や「鉄板スパゲティ」など創業以来の味を守り続け、現在は、兵庫・大阪を中心に29店舗を展開している。2021年、コロナショックという未曾有の困難の中で代表取締役社長に就任した小儀俊彦氏は、倒産の危機に直面しながらも「飲食業の尊さを再確認した」と語る。創業家の3代目として、老舗喫茶の伝統を守りつつ、次代へつなぐための組織改革に挑む同氏に、その経営方針と未来への展望をうかがった。

外の世界で知った「選ばれる理由」と「一流の所作」

ーー大学卒業後、食品専門の商社に入社されたそうですが、どのような背景があったのでしょうか。

小儀俊彦:
私の家は、創業者の祖父も父も同じ屋根の下で暮らしており、家の中でもお互いを役職名で呼び合うような、「家が会社」という環境で育ちました。そのため、幼い頃から三代目として後を継ぐことを意識せざるを得ない状況にありましたが、まずは外の世界で勉強したいと考え、食品専門商社へ入社しました。

商社での2年間は、営業だけでなく内勤の事務や経理まで幅広く経験しました。そこで痛感したのは、当時の外食業界における「仕組みの至らなさ」です。取引先に大変な手間をかける発注方法や、非効率な伝票処理を目の当たりにし、客観的な視点から業界の課題を見つけることができました。

また、多くの現場を回る中で、勢いのある店とそうでない店の違いを「生の声」として聞き、肌で感じられたことは大きな財産です。地方でエリアを絞って店舗展開する「地域に愛されるレストラン」の姿を数多く目にしたことで、私たちも大阪の地で「地域に欠かせないお店」になりたいという、今の経営にもつながる強い思いが芽生えました。

ーーその後はどのようなキャリアを歩まれたのでしょうか。

小儀俊彦:
商社退職後、サービスの勉強のため「ホテルオークラ神戸」へ1年間勤務させていただきました。そこでは、まさに「一流のサービス」の洗礼を受けました。オークラのスタッフは、バックヤードを歩く姿一つとっても背筋が伸びて美しい。その姿には、自身の仕事に対する強い誇りが溢れていました。

何より学びになったのは、「お客様が何を求めているか」を常に先読みするアンテナの鋭さです。お客様が口に出される前にそのニーズを察知し、期待を超えるサービスを提供する。この1年間で叩き込まれた「おもてなしの心」と所作は、今も私の接客における揺るぎない基礎となっています。

迷走を断ち切りブランドの「原点」を磨く

ーー貴社に戻られてからは、どのような業務に携わったのでしょうか。

小儀俊彦:
ホテルでの勤務を終えて弊社に戻り、数年間現場を経験した後に本部へ入りました。当時の弊社は、多角化戦略の一環としてセルフカフェや居酒屋ダイニングなど、さまざまな新業態に挑戦していました。

しかし、私は内心で強い危機感を抱いていました。セルフカフェなどは大手チェーンの勢いが凄まじく、同じ土俵で戦っても勝ち目はありません。また、新業態に注力するあまり、自社工場が支えてきた「洋食」という強みが活かされず、工場の稼働が落ちていくという矛盾も起きていました。「私たちが一番の強みを発揮できる場所はどこか」と突き詰めた結果、たどり着いたのは、社名でもある「心斎橋ミツヤ」のブランドを徹底的に強化すること、そして培ってきた洋食の技術に特化した専門店をつくることでした。

そこで2006年、私が主導して開発したのが洋食専門店「昔洋食 みつけ亭」です。ショッピングセンターへ出店するため、ファミリーレストラン形式ではなく、特定のメニューに強いこだわりを持つ「専門店」としての価値を打ち出しました。

現在は、この「昔洋食 みつけ亭」と「心斎橋ミツヤ」の2本柱を事業の中心に据えています。一過性の流行を追うのではなく、私たちが本来持っている「強み」へ原点回帰したことで、商業施設からもお声がけをいただけるような、安定した経営基盤を築くことができました。

ーー社長就任直後のコロナ禍という逆境を、どのような覚悟で乗り越えられたのでしょうか。

小儀俊彦:
本当に厳しい船出でした。緊急事態宣言で店は開けられず、売上はゼロなのに家賃と人件費だけが出ていく。このままの状態が続けば、1年も経たずに倒産してしまうのではないか。そんな現実的な恐怖が、すぐ目の前に迫っていました。誰とも会えず、業界の仲間とも傷をなめ合うことしかできない日々に、私自身も心身ともに追い詰められ、ふさぎ込んでしまうこともありました。

しかし、この未曾有の苦境こそが、私に大切なことを教えてくれたのです。それは、「飲食店とは単に食事を提供するだけの場所ではない」ということです。人と人がつながれないことがこれほどまでに辛いのだと痛感したからこそ、私たちが提供している「語らいの場」がいかに尊いものかを再認識しました。

そして何より、現場で不安を抱えながらも前を向いて頑張ってくれている社員たちの存在が、私の支えとなりました。現場の必死な姿を目の当たりにし、「彼らの生活と、この大切な場所を絶対に守り抜く」と、経営者としての覚悟がより一層強固なものになったのです。

自社工場による品質と心通う「おもてなし」

ーー競合他社と比較した際の、貴社の強みを教えていただけますか。

小儀俊彦:
最大の強みは、昭和49年という非常に早い段階から自社工場を持っていることです。ソースやケーキなどを一括で製造することで、味の均一化はもちろん、高い生産性を実現しています。長年の信頼関係がある取引先から良質な食材を安定して仕入れられることも、お客様へ手頃な価格で料理を提供できる理由の一つです。

ーーその他、こだわっていることは何でしょうか。

小儀俊彦:
やはり「接客」です。私が目指しているのは「居心地のよいお店」。街中の喧騒にあっても、店に入ればホッと息がつける。そんな空間を作るためには、スタッフの温かいサービスが不可欠です。お客様への感謝を忘れず、期待以上の喜びを提供できる店づくりにこだわっています。

社員の幸福がお客様の満足をつくる

ーー組織づくりにおいて、注力されていることはあるのですか。

小儀俊彦:
従業員の働きがいにつながるよう、さまざまな施策を推進しています。かつては年功序列の色が濃い会社でしたが、今は意欲ある若手には機会を与え、早期に店長へ抜擢するなどの人事制度改革を進めています。また、女性社員が出産後も働き続けられるよう、短時間勤務やエリア限定社員など、生活の変化に合わせた多様な働き方も選択可能です。社員が幸せでなければ、お客様を幸せにすることはできませんからね。

ーー最後に、今後の展望をお聞かせいただけますでしょうか。

小儀俊彦:
私は「年輪経営」という言葉を大切にしています。急激な拡大や売上至上主義を目指すのではなく、木の年輪のように、少しずつでも着実に成長し、太く強い会社にしていきたい。親子3代で通ってくださるお客様がいるように、これからも地域に根差し、100年、150年と続いていく企業でありたいと考えています。時代に合わせて変化すべき部分は変えつつも、「お客様に喜んでいただく」という商売の原点は守り続ける。それが、私の使命です。

編集後記

自社の強みに原点回帰し、ブランドの再強化を推進した小儀氏。大手チェーンと競うのではなく、培ってきた洋食の技術に特化した専門店を展開する戦略は、着実に実を結んでいる。そして、コロナショックという最大の苦難を経験したからこそ、奇をてらわない「日常の豊かさ」を提供するミツヤの強さが際立っている。大阪の喫茶文化を支えてきた老舗の誇りと、変化を恐れない柔軟な姿勢。この両輪で進む同社は、これからも多くの人々の憩いの場として年輪を刻み続けていくに違いない。

小儀俊彦/1974年兵庫県宝塚市生まれ。近畿大学卒業。食品専門商社での2年間の勤務を経て、2000年株式会社心斎橋ミツヤに入社。2021年5月に同社代表取締役社長に就任。大阪外食産業協会(ORA)の副会長として業界の発展に尽力している。