
昭和の時代から依存症や引きこもりなどの精神疾患における退院後のケアに力を入れ、地域医療の最前線を走る医療法人せのがわ。大学卒業後に心理士としてキャリアをスタートさせ、現在は理事長として法人を率いる下原唯千夏氏は、患者の「生活」に寄り添う中で、精神医療が抱える課題と向き合ってきた。依存症治療から就労支援、そして新たな「予防」への取り組みまで。精神疾患を持つ方が「元気になる場所」をつくるための挑戦と、これからの地域医療のあり方に迫る。
心理士から施設長へ「生活」を知ることで見えた真の課題
ーーまずは、これまでのキャリアについてお聞かせいただけますか。
下原唯千夏:
大学卒業後、父が創設した当法人の精神科病院で心理士として働き始めたことが私の原点です。そこでは主に、患者さんとのカウンセリングや心理検査を担当していました。決められた50分という枠組みの中で、患者さんの病気に対する思いや抱える問題について、お話をうかがう日々を送っていました。
ーーご自身のキャリアにおける大きな転機は何でしたか。
下原唯千夏:
精神障害者の方が入居するグループホームの施設長に就任したことです。施設は患者さんが暮らす場所であり、生活そのものに密接に関わります。朝起きてから夜寝るまでの様子を見守る日々の中で、服薬やお金の管理、対人関係など、病院の臨床現場では知り得なかったたくさんの課題に直面しました。
ーー生活を間近で見ることで、支援に対する視点はどのように変化しましたか。
下原唯千夏:
支援の目的が「選択肢を増やすこと」へと明確に変わりました。ある入居者の方から「アルバイトをしたい」と相談を受けた際、「何をしたいのか」と尋ねると、「新聞配達」としか答えられなかったのです。そこで初めて、入退院を繰り返して進学や就職を諦めてきたため、社会参加の経験が乏しく、選択肢を持っていなかったのだと気づくとともに、「私たちが選択肢を増やさなければならない」と強く感じました。退院後の生活の方がはるかに長いため、その生活をどう支え、社会参加へつなげるかという気づきが、現在の活動の基盤となっています。
誰もが元気になって帰れる場所へ 一気通貫のサポート体制
ーー理事長として、ご自身が大切にされている信念を教えてください。
下原唯千夏:
常に心に留めているのは、「自分が受けたいと思える医療や環境か」という視点です。精神疾患は再発しやすいと言われますが、大変な環境にある人でも、元気になることは絶対にできると信じています。「スタッフと話したら元気になった」と言っていただけるような、元気を持ち帰ってもらえる場所でありたいです。

ーー貴法人の特徴や強み、具体的な支援内容についてお聞かせください。
下原唯千夏:
最大の強みは、社会復帰までの一気通貫の支援体制です。「いつでも、どこでも、だれでも」という理念のもと、訪れる人を温かく受け入れることを何より大切にしてきました。
具体的には、退院後の生活を支える訪問看護とグループホームの双方に対応するほか、リハビリ施設の運営や就労支援事業なども展開し、入院中から地域に出た後までをサポートする仕組みです。
また、依存症の治療に早くから対応している点も大きな特徴と言えます。アルコールや薬物だけでなく、近年増加するスマホ依存などに対し、専門スタッフがご本人とそのご家族を支える体制を構築しました。そのほか就労支援においても、お好み焼き屋やベーカリーの運営、農作業などを通じ、体調管理のペース把握やコミュニケーションを練習する場を提供しつつ、一般就職後もスタッフが企業に出向いて定着支援を行うなど、継続的なサポートは欠かしません。
「予防」への挑戦と地域連携で描く未来
ーー今後、法人として新たに注力していく取り組みについて教えてください。
下原唯千夏:
「病気にかからないための予防」への注力です。その一環として、2025年に「せのウェルネスグループ」を発足させました。これからの医療において、予防は非常に重要になります。私たちはNPO法人を通じ、不登校などに悩む方が相談できる窓口を立ち上げました。医療や福祉につながっていない方へアクションを起こすことが、精神疾患の予防につながります。「せのウェルネスグループ」という名前には、啓発活動や予防的な取り組みを通し、障害の有無にかかわらず、関わるすべての方が「健康でいること」を実現していくという、グループ全体が向かうべき方向性を示しています。
ーー最後に、今後のビジョンや意気込みについてお聞かせください。
下原唯千夏:
予防的な取り組みを地道に継続し、「何かあったら相談できる場所がある」と知っていただくことです。引き続き、生活を支えながら治療できる仕組みを整えていきます。同時に、地域連携の強化も不可欠です。患者さんの高齢化に伴い合併症を持つ方が増えているため、総合病院などと緊密な連携を築いていきます。今後も医療DXを推進しながら、患者さんにとって最大のメリットとなる医療を提供し続けていく所存です。
編集後記
心理士として患者の心に向き合ってきた下原氏だからこそ、「生活」という現実的な課題に直面した際の衝撃と、それを支えたいという思いの強さは並々ならぬものだったのだと感じた。医療の枠組みを超え、就労や予防にまで踏み込んだサポート体制は、患者やその家族にとってとても心強い。「誰もが元気になることができる」という言葉の裏には、日々の地道な支援と深い愛情があるのだと確信した。精神医療の新たな可能性を切り拓く同法人の取り組みに、今後も注目していきたい。

下原唯千夏/1965年広島県広島市出身。公認心理師、精神保健福祉士、博士(保健学)。1988年に医療法人せのがわへ入社し、2000年に同法人の生活訓練施設(現グループホーム)の施設長に就任。2006年に副理事長を経て、2012年に理事長へ就任。その他、特定非営利活動法人FOOT&WORKの理事長、広島県精神保健福祉協会理事、国連ユニタール協会副理事長も務める。