【ナレーター】
『コナカ・フタタ』『SUIT SELECT(スーツセレクト)』『DIFFERENCE(ディファレンス)』などの店舗を運営し、紳士服を中心に企画・製造・販売を手掛ける「株式会社コナカ」。
1952年の創業以来、一貫してビジネスウェアを追究し、現在、全国に400店舗以上展開し、紳士服のリーディングカンパニーとしての地位を確立した。
近年では、デジタル化の推進やオーダースーツ事業の強化など、市場の需要動向の変化を捉えた経営戦略に積極的に取り組んでいる。
縮小傾向にあるビジネスウェア市場において、生き残りをかけた経営者の挑戦に迫る。
【ナレーター】
自社の強みについて、湖中は独自の商品開発体制を挙げる。
【湖中】
私たちは物販・小売業です。お客様にお届けする品物や商品をつくりつつ、企画・販売後のフィードバックを生産に回していくシステムを社内で確立しています。
そのため、ポートフォリオの変更が自分たち主導でできるという強みがあります。
世の中に押されて、状況がどんどん変わっていくのは当たり前なのかもしれません。私たちの業界は今、シュリンクしている状態です。一歩先に行かないと、勝ち残っていくこと、生き残っていくことは難しい。
当社は、紳士服を扱う大手の中では方向性が異なっている会社かもしれません。ですが、企画部門も社内で持つことで、当社にしかない商品をつくることが可能になり、一般的に並んでいる商品とは少し違うものをつくり込み、お客様に提案していくことができます。
それがコナカの生産背景にありますので、その流れをつくろうとしています。
最終的にお客様の手元に残るのは、お品物です。「コナカがつくり上げるものが一番良い」とお客様に感じていただける仕組みにしていくことが一番だと思います。
【ナレーター】
湖中の経営者としての原点は課長時代にある。当初は家業を継ぐつもりはなく、飲食店に勤めていたが、父の誘いを受け、1982年に入社。海外出張時に乗った飛行機内でのある出会いが、後の経営者人生に大きな影響を与えたと振り返る。
【湖中】
たまたま隣り合わせた席の人が話好きで、当社と業界が類似した仕事をしている方でした。「いろいろ教えてもらえると助かるな」と感じ、飛行機を降りてからも交流させてもらう機会を設けていたんです。
その後、彼は勤めていた会社を辞めて、個人でメーカーを創業したのですが、出資をしてくれていた企業が倒産してしまって。急なことだったので、資金繰りや社員を養っていくことも厳しい状況になりました。
私も、何か手伝ってあげられないかと考え、行動し、一緒に乗り越えたことで友情も固まりましたが、会社の経営は決して素晴らしいことばかりではありません。
素晴らしくないことを淡々とやることが大切で、最も難しいことだと学んだできごとになりました。経営において、最も大切なのは血液、つまりお金です。それを身に染みて感じました。
【ナレーター】
全国に店舗を増やしながら、常務、専務取締役を経て、2005年に代表へ就任。今でも鮮明に覚えている当時のエピソードについて、次のように語る。
【湖中】
前任の社長に「社長をやらないか」と言われたとき、自分としては現場の仕事で会社に貢献することの方が、より大きな利益をもたらせるのではないかという自負がありました。
すぐに「お断りします」と返答しましたが、あるとき社長から「食事でもしないか」と。出かけると私の父も同席していて、「どうなんだ」と挟み撃ちにあいました。
そこで私は「社長になると、どんなことをさせていただけますか」と逆に聞いたんです。自分の理想に向かって舵を切れるのか、切れないのか。それは、すごく大きなことでした。
自分の中でも考えはいろいろありましたが、2人から「あなたの考えを社員に示し、その方針で了解が得られれば、突き進んでみたらどうか」と言ってもらって。それならば「ぜひ、挑戦してみたいと思います」と伝え、社長に就任させていただくことになりました。
【ナレーター】
当時のビジネスウェア業界は、専門店でオーダースーツを仕立てる高級志向から、品質の良い既製スーツを安価で手軽に買えるカジュアル志向へと移り変わる過渡期だった。
その中で、湖中が打った一手とは。
【湖中】
それまで弊社郊外に、お金をかけてたくさんの在庫を置ける大きな店舗をつくっていました。
ですがその頃は、お客様が通勤途中に立ち寄れる駅前や駅ビルなど、もっと手軽に買い物できる場所にお店をつくるスタイルに変化していた時期でした。
そういう過渡期を迎え、お客様のニーズに合う新たな出店先にふさわしい商品をつくりたいと考えました。
それは、私たちがこれからやっていくべき課題であると捉えていますし、私自身もそういうお店を展開したい。その希望もあって、話が進みました。